ベーシックインカム(BI)を実施すれば、「多くの人は働くことやめてしまい、社会が成り立たなくなるのではないか」という批判が根強くある。「働かざる者、食うべからず」という勤労倫理がベーシックインカムに強い拒否反応を生み出していると言って良い。ところが、戦後、ベーシックインカムの社会実験を行ったところでは、人びとの勤労意欲が減退したという結果が出たという報告は上がっていない。にもかかわらず、このような批判が根強く存在しているのはなぜか。その根拠になっているのが「スピーナムランドの失敗」と呼ばれるものである。これについてオランダの歴史家ルトガー・ブレグマンがその著書『隷属なき道』(文藝春秋2017年)で興味深い事実を示している。
▽史上初めてのBI
1795年5月6日、イギリス南部のバークシャー州スピーナムランド村で「勤勉ながら貧しい男性とその家族」の所得が、最低限の生活ができる水準まで収入が補填されることになった。これは史上初めてのベーシックインカムといっていい。それ以前にもイギリスには公的救済制度として救貧法があったが、それは労働不能の貧民(高齢者、こども、障がい者など)は救貧院に収容し、労働可能な貧民は、競売にかけ、最低限の賃金を地方自治体が補填するという非人道的なものだった。スピーナムランド制度は、この非人道的な制度に終止符を打った。その成功によって飢えと貧困が減少したことにより、この制度はイギリス南部全域に拡大した。
「人口論」で有名なトマス・マルサスは、スピーナムランド制度のせいで貧困層はできるだけ早く結婚し、多くのこどもを持とうとするため、人口増加を促し、悲惨な結果をもたらすと予測。また経済学者のデヴィッド・リカードは、所得補償制度は勤労意欲を低め、食糧生産を減少させ、イギリス国内にフランス流の革命の火を燃え上がらせるに違いないと考えた。
1830年の夏の終わり頃、実際に暴動が発生し、各地で数千人の農民が「パンか血か」を叫んで決起すると、その原因をスピーナムランド制度に求めた政府は大規模な調査を実施し、1万3000ページに及ぶ王立委員会による報告書を作成。その結論は「スピーナムランド制度は大失敗だった」というもの。この報告書は長期間にわたって社会科学の権威ある資料と見なされた。その見解は、ベンサム、トクヴィル、ジョン・スチュアート・ミルそしてマルクスといった19世紀を代表する知性から支持を受けた。
▽「王立委員会報告」
ところが、1960年代から70年代にかけて、王立委員会の報告書の見直しがおこなわれ、報告の大半がデータ収集前に書かれたものであったことが明らかになった。また配布された質問状のうち、回答されたのはわずか10パーセントだったうえに、質問は誘導的で選択肢が限られており、聞き取りの対象者に制度の受益者がほとんど含まれていなかったことが明らかになった。
「社会科学の権威ある資料」として重きを置かれていた報告書は、実は「スピーナムランド制度によって貧者はより狡猾になり、怠惰になる」という予断に基づいて、その大部分がねつ造されていた。また1830年の農民暴動は、リカードが提唱した金本位制への復帰によって農産物価格が暴落したことが原因であって、スピーナムランド制度とは関係がなかった。つまり、今から225年前に導入されたベーシックインカム=スピーナムランド制度はかなりの成功をおさめていた可能性が高いのだ。
カール・ポランニーは、その主著『大転換』のなかでスピーナムランド制度について、産業資本主義成立の基礎となった労働市場の形成に抵抗するものとして高く評価した。スピーナムランド制度が廃止され、修正救貧法が成立した1834年において初めてイギリスに「競争的労働市場」が確立したのである。
ベーシックインカムと資本主義の関係は、その出発点から相性が悪いようなのである。
(つづく)