一昨年の火災で焼失する前、首里城正殿の前に位置する龍柱は、2頭が対面で向き合う形で復帰後(平成に)再建されました。この復帰後の再建の時、もともと、つまり明治とか大正時代には龍柱は2頭が正面を向いていたと記憶していた人が、向きを元通り正面向きに復活させよと主張しましたが対面にされたのです。
なぜ龍柱が相対になったか。昭和の時、首里城が傷みだし、解体の話まで出ました。そのような折り、鎌倉芳太郎・伊東忠太などが保存を主張し、日本政府に受け入れられました。しかし当時、文化財保護法は制定されておらず、古社寺保存法があるのみでした。古社寺保存法では城の修繕は対象外。そのため伊東たちは正殿の後ろに沖縄神社を建て、正殿を神社の拝殿と位置付けることで国の予算を使って修繕できるように取りはからいました。
このとき龍柱は神社の狛犬のように対面になりました。その修繕された昭和の首里城は沖縄戦で焼失し、戦後、しかも復帰後(平成)に再建されたのが今回火災に遭った首里城なのです。つまり沖縄神社の拝殿たる正殿が修繕されたときに向きを変えられてしまった龍柱が、そのままの形で再建されたのです。今回もまた、龍柱が対面で再建されそうなところに、1877年に撮影された写真が最近発見されました。琉球国はフランスと1877年、修好条約を結びましたが、その時、撮られたらしい首里城正面の写真が発見されたのです。そこには正面を向いた龍柱が写されていました。
これにより首里城が、併合される以前から龍柱が正面を向いていたことが証明されました。おそらくその通りになると思います。なぜ、龍柱の向きに県民がこだわるのか。それには琉球の歴史にかかわる問題があります。今回は触れませんが、辺野古の問題にもつながるからです。辺野古の問題は自然破壊、戦争と平和の問題のほかに、歴史認識の問題があるのです。
(富樫守)