「福島原発事故から10年を迎える福島から」。1月16日、事故前、後もいわき市に住む伊東達也さん(元の生活を返せ・いわき市民訴訟原告団長)の話を聞いた。避難できない、避難しない人たち。いわき市は広く、第1原発から25キロから60キロまでの範囲を含む。伊東さんは約40キロの中心部に住み、地元で多くの訴訟にかかわっている。質疑の一部も含め要旨を紹介する。(主催/原発なくそう芦屋連絡会、文責・見出し=本紙編集委員会)

▽ふる里が奪われ10年

 事故から間もなく10年の時が刻まれる。被災地の中心である阿武隈高地の「ふる里」は、自然が荒び10年の時は無為に過ぎ去ったかのようだ。かつて人々の心の拠り所、暮らしの基盤だった地域、「ふる里」が剥奪されてしまった10年である。

 最も過酷な被害が続いているのが、「避難指示」が出された12市町村。そこは、いまだ戻っていない、戻れない人は5万3484人(20年11月、県避難地域復興課)にのぼる。政府発表の3万7千人とは大きくかけ離れる。避難指示がなかった地域からの、いわゆる自主避難は「避難者」に数えられない。避難指示が解除された区域の居住率(帰還率は未発表)は、わずか30・8%である。商店街や住宅地は取り壊され、地域共同体は機能できていない。人々は、ふる里とともに過去、現在、未来までも奪われた。県内全体で戻っていない人数は約5万5千人、自主避難者が約1万2千人とされているが発表されていない、もう数えていない。

 私は、事故以前からいわき市に住んでおり、浜通りにある医療生協の理事長をしていた。当日は大混乱で道路が渋滞、動きがとれなかった。翌朝、ふだん車で30分ほどの病院にやっとたどりついた。専務、職員が、会ったとたん「理事長!戦場です!」と大声。宮城、岩手の津波被害は前日から知っていたが、福島の状況はよくわからなかった。「蘇生治療をしたが駄目だった」と、彼らは徹夜状態のまま廊下で仮眠をとっていた。屋上の給水タンクが使えない。水、飲料水を何とかしなければ、給食がとまる。やっと3時ころ、近くの作業所でつくったオニギリを配る。そういう状態だった。そのときに、第1原発が水素爆発した。

▽とうとうやっちゃった

 ドアを蹴破るように飛び込んできた早川さんという、ずっと原発の危険性を訴え住民訴訟もやってきた人が「伊東さん!とうとうやっちゃった!」と叫んだのを、はっきり憶えている。私たちは「事故が起きれば大変なことになる」と学者のみなさんの話を聞き、チェルノブイリにもスリーマイルにも行き、知っていた。しかし、早くから原発立地に反対してきた者は「地域の発展をじゃまする人たち」と言われてきた。いま思うと、福島事故はどうもチェルノブイリともスリーマイルとも違うよな。この10年、こんなに福島県民を苦しめている。

 チェルノブイリでは「元の村に帰りたい」という声は、ほとんど聞かなかった。30キロ範囲は完全に放棄し「除染」もしない。その代わりに政府が責任をもち、新しい町をつくった。日本は移住政策をとらない。とれないのかもしれない。数10万人を移住させる土地もない。つまり日本は、「事故は起きない」ということが大前提だった。議会で質問すると「万一の際は、どこに集合しバスを何10台用意する」とか、絵に描いたようにすらすらと答弁する。その結果が、この10年だ。

 被災地の中心、阿武隈高地は非常に古い山地。その東海岸に原発をつくった。そこでお互いに繋がりながら暮らしてきた人々は、本当に暮らしの根幹を失わされてしまった。

▽東電さんよ、ありがとう

 その人たちが、どのような声をあげているのか、新聞報道などを含め紹介してみる。「自宅は中間貯蔵施設予定地、売却を拒否している。事故から6年後に初めて自宅に立ち寄った。家は木々に飲み込まれ、自分は政治に飲み込まれる。代々のお墓が双葉町にあるが、お参りもできない。放射能は死んだ人まで悩ませる」(60歳、男性)。

 「第2原発の富岡町から、いわき市に避難。先祖が開墾し、自分が広げた水田を全部仮置き場に提供した。国の役人は転勤すれば他人事。自分たちは一生の問題だ」(65歳、男性)。

 いちばん汚染が酷く100年かかるとされる浪江町津島地区から、須賀川市に避難している(80歳)。一時帰宅のたびに自宅の窓ガラスに張り紙をする。「仮設で パチンコできるのも 東電さんのおかげです  仮設で涙流すのも 東電さんのおかげです 東電さん ありがとう」。「パチンコできてよかったね」と言われるんだ。東電さん、ありがとうだよ! 

▽伊東さんがうらやましい

 福島地裁いわき支部での避難者訴訟の原告の1人。一般的に避難者という場合、強制避難者のこと。その本人尋問。事故発生時、64歳。「夫婦、娘夫婦と孫の5人で立地町の阿武隈の里山に抱かれた地域に住んでいた。家業は、墓石が風雪でやせ細るほど代々続いてきた味噌醸造業。「婿養子に入り、高校教員を定年前に辞め家業を継いだ。独特の風味を持った味噌をつくり、裏山に柿、きのこ、ハーブ、筍を育て訪れるお客さんをおもてなし。家族が力をあわせ暮らしていた。町が進めていた、家庭ゴミから有機肥料をつくり野菜を育てるリサイクル運動を推進してきた。そのすべてを原発事故で失い家族は4カ所に分散、心身の健康を害した」。

 事業の再開をめざし東電と交渉した。東電は初め、事業再開のための機械、家賃などの負担に理解を示した。そのため借金し再開をめざしたところ、前言を翻した。多額の借金のみが残り事業は崩壊した。希望をとり戻すべく、気力を振り絞って東電に訴訟を起こした。体調は一気に悪化した。思うのは、家族が薪ストーブを囲みながら話し合っていたころの冬の団欒…。いまの自分は、息をしているだけの抜けがらのようだ。 彼は、そう語った。弁護士さんも、後は聞くことができなかった。

 私は、いわき市民訴訟の原告団長をやっており、何かのときには発言を求められる。そのとき彼は、「伊東さんはホント言いたいことが言え、うらやましいよ」と言った。私は、そのときカッしてね、「万分の1も言っていないよ」。しかし、はっとした。彼はもっと、もっと悔しいんだ。 

 地域のリーダーのような人たちは、いろんな意味で東電がスポンサーになる。お祭りのときなどもね。やっている人に悪気はないよ。そういう人たちは大勢いる。しかし、いま考え直し別の道を歩まなければ…。裁判をやっていると、「原発をなくせという言葉が少ない」という他県の人がいる。しかし、それでは進まないんだ。きのうまで保守の看板を背負って町の中心で活動していた人が、裁判に出る。そういう人にとっては、「そこまで責めないでくれ」ということだよ。それ言ってしまえば、これまでの仲間からは「裏切り者」と言われる。そこまで追い込んでいいのか。大きな声を出せなくても、みんなでやっていく。そこに、共通点を見出せる。この裁判には、保守も革新も何党もない、みんなが手を結ばなければね。

(つづく)