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 最後にベーシックインカムにたいする、労働運動サイドの懐疑的な評価について検討したい。取り上げるのは、今野晴貴『ストライキ2・0』(集英社新書)である。

今野は、労働と所得を切り離すベーシックインカムが「労働問題を解決するという期待」は、場合によっては「非常に危険なものとであるとさえ言わざるを得ない」 という。なぜなら、EU諸国などのような賃金や労働条件の客観的水準(産業別労働協約)が存在しない日本では、月4万円のベーシックインカムが支給されたとしても、月給20万円が16万円に引き下げられこともあり得る。それどころか、「労働運動の課題である労使の労働条件決定の意義が相対化され、国家による給付政策があたかもこれを代替するかのような『期待』が蔓延すれば、ますます労働条件は使用者の意のままになっていく」。

 つまりベーシックインカムが正しく機能するためには、「賃金と労働条件の客観的基準(産業別労働協約)を確立すること」が前提条件となる。それは「労働市場という市民社会のアリーナ(闘技場)」で「労使双方がストライキとロックアウトという『武器』で争い、妥協し、決着をつける」ことによって勝ちとられていくのだ。

 

▽資産としてのジョブ

 第2回で紹介したように、ベーシックインカムの代表的論客であるフィリップ・ヴァン・パリースは、社会的協業関係によって生みだされた財はすべての人に公正に分配されなければならないと考える。これが「労働と所得を切り離す」ということである。完全雇用が破産している今日、賃金労働(ジョブ)は「希少な財(資産)」となっている。だから、「希少な財(資産)」を他人に譲っている人びと、すなわちジョブを放棄している人びと(失業者)が、公正な分配を剥奪されるようなことがあってはならない。そうすることで人びとはやりたくもない労働から解放され、より有意義な活動にアクセスできるようになるのである。

▽雇用なしで生きる

 すでに完全雇用が破産して久しい今日において、すべての人が「労働市場というアリーナ(闘技場)」での決戦に挑まなければならないのだろうか。このアリーナではかなり過酷な戦いが求められることがしばしばであり、「解雇を撤回して、この職場に戻すことが本当によいことなのか」と思うような会社も多い。こうした会社では、経営者相手に頑張っている労働者のほうが病気になってしまうこともしばしばだ。だから、労働市場から「逃げること」は悪いことではない。いやむしろ、「逃げること」の積極性の方に注目したい。つまり「雇用なしで生きる」ということだ。これは決してとっぴなことでも何でもない。『ストライキ2.0』には、次のような一節が出てくる。

 「20世紀型の労働運動では『言われた仕事をやるから賃金を保障しろ』という論理が支配的だったのに対して、21世紀では「とにかく自由に働きたい」という労働者の欲求が、世界中で高まっている」

 そして、今野自身も「ケアワーカーからの労働相談では、『こんなひどい職場はもう辞めて、自分で施設を作ろうと思う』という言葉を何度も聞かされてきた」という。

こうした欲求をもった労働者たちが連帯して、雇用関係からもう一歩外に踏み出せば、社会的連帯経済の創造は不可能ではない。「雇用なしで生きる」が、世界のトレンドになっていけば、日本も例外ではないだろう。

▽人びとの「希望」へ

 コロナ禍のなかで、ベーシックインカムの導入に関する議論が高まっている。ベーシックインカムは単なる一時しのぎの経済政策ではない。その導入はたとえ部分的なものであったとしても資本主義社会に重大な変化をもたらすだろう。それを端的に言えば、人びとの労働市場からの自主的な退出を促す機能をもっていることであろう。労働市場から退出した人びとによってもう一つの経済が始まれば、いずれそれが資本主義にとっての脅威へと成長する可能性もある。ベーシックインカムはそれ自身では、資本主義社会の矛盾を解決する特効薬でも万能薬でもないが、それが「連帯と正義」に基づいた社会活動、経済活動と結びつき、その発展を促していけば、「競争と貪欲」の資本主義を打ち負かすかもしれない。ベーシックインカムが人びとに与えるものは「希望」である(おわり)。