
あの3・11からまもなく10年。揺れる大地と押し寄せる津波、続く福島第1原発の爆発。それからの被害の実相を知れば知るほど、「何もわかっていなかった、何もしてこなかった」と、焦る思いで集会やデモに参加した。同じ思いなのかどこにも人が集まってきた。会場にあふれる人を見て、反原発運動を30年続けてきた女性が「もっと前からこれだけ来てくれてたらね」と言った。恥ずかしかった。
その後、私は関西での「保養キャンプ」に関わり始めた。
12年春、キャンプでのある日、男の子の乳歯が1本抜けた。別の子が「上の歯は縁の下に入れるんだよ」というので今も昔も同じだなと聞いていたら、もうひとりの子が「抜けた歯はとっておくんだよ。あとで放射線を測れるから」と。
帰る日の朝、1年生の女の子が「帰りたくない」と部屋の隅で動かなくなった。私は「抱っこしてあげようか」と声をかけてみた。首を横に振ったがかまわず膝の上に抱き上げたら黙ってじっとしていた。結局「また夏休みにね」という約束で帰って行った。親と離れ、見知らぬ土地と顔を見たこともない人たちの中で過ごし、帰りたいはずなのに帰りたくないという幼い子どもの心の中、送り出す親の思い…、それを覗くことはできないが、あの時はみんなが必死だったんだと思う。時は過ぎ、「保養は風評被害を拡げる」などと中傷もされたり公的な補助もほとんどない中で、子どもたちの笑顔と被災現地の人々とのつながりを糧にして各地で「保養」は続いている。
今、国は「復興」の名の下に積極的に「子ども」施策を展開しつつある。それが「復興の切り札」とされる「福島イノベーション構想」である。重点項目の一つが「復興のための教育と人材育成」である。これまでも国は「放射能は怖くない」、「福島はもう安全」と宣伝してきたが、この構想はそれを一歩進め、学校現場で教育の名で「復興の担い手」、「原発収束と廃炉の担い手」として子どもを育てようというものだ。もちろん「原子力の安全性と有為性」が前提である。「資料を読むと底知れぬ恐ろしさを感じる」とはある地元の女性の言葉だが、ぜひ「構想」を見てほしい(https://www.fipo.or.jp/)
2月13日深夜、震度6強の大地震が福島・宮城などを襲った。福島原発では格納容器の水位の低下も起きている。地震が多発する中で原発を気にしながらの人々の暮らし。3・11はなにも終わっていない。このまま子どもたちに遺すわけにはいかないではないか。
一つの詩を紹介したい。
野の道をととのえよう/子らが行く路/樹々もあれ、野の花々/かたはらに蜜も虫も(中略)/野をならし/道をととのへよ/子らが通ふ野の路/はるかむかうを見るあたり。
(「いわき放射能測定室たらちね」のホームページより)