牧志徳さんは戦後奄美・加計呂麻島で生まれ、2歳のころ沖縄諸島の基地の町「嘉手納村」へ移住。「復帰」前パスポートで16歳で大阪此花区へ。病院勤務のかたわら島唄に取り組んできた。関西合同労組・春闘討論集会(1月)で、自身の経験にそって沖縄・奄美についてとの要請に、「島唄の向こうに見えてくるもの」の題で唄と話が始まり、参加者は自然に引き込まれた。以下紹介する。(聞きとり、まとめ・見出し/高崎庄ニ)

 「うがみそーら、ちゅうがなびら…」。琉球語であいさつさせてもらいます。日本語と違うと思ってもらえれば嬉しいですね。かつて琉球、奄美は琉球国でした。琉球国の名残の島人です。今はコロナで行きにくいけど沖縄、奄美に行ったら便利な言葉です。「こんにちは。はじめまして。こんばんは。元気ですか」。

 最初のあいさつは「うがみそーら」。あなたを拝みましょうという意味です。この言葉を使うと、みんなすぐ友だち、兄弟みたいに親しみを覚えます。練習してみてください。元気よく、「うがみそーら」。那覇の国際通り、お土産さんに「うがみそーら」と言いながら入ると、「半額」になるかもね。

 みなさんの組合ニュース『拓』を送ってもらい、いろんな取り組みをしているなぁと…。(きょうの)報告などを聞くと、働く人の生活を守りながら、いろんな課題をやっている。「大変だなぁ」とちょっと感動しています。では、沖縄の青い海・青い空を歌った『芭蕉布』を歌います、首里城も入っています。知っている人は、いっしょに歌ってください。

▽故郷の沖縄、嘉手納

 アジアの人たちは、私たちの故郷沖縄を「悪魔の島」(注)と呼んでいるらしく、ちょっと悲しい思いをしています。私は、奄美大島の加計呂麻島で生まれ、2歳くらいのとき沖縄の嘉手納に移りました。親父がアメリカ軍の基地で働き稼いで家族を呼んだ。嘉手納村はさびしい村でした。

 大阪に来てから高校に行った。担任が反戦教師で「お前のところ沖縄は、大変やなぁ」と言われた。

 村では、2階建て校舎の窓のすぐ上をファントムの戦闘機が飛び、パイロットのサングラスをかけた顔、赤とか黄色の「つなぎ」の服が見える。それが5機編隊、菱形になっていた。授業は5分おきに中断される。すぐ近くに嘉手納飛行場があり、地平線の見える飛行場でした。伊丹空港の3倍の広さ、4千メートル滑走路が2本ある。いつも100機以上の戦闘機、軍用機がスクランブル、戦闘態勢にはいっていた。

 これがまた、うるさい。タッチ&ゴーを知っていますか。滑走路が爆撃され使えなくなったときの訓練をしていた。戦闘機の急降下、すごい金属音ですよ。電車の特急が高架の上を通るときのような、95ホンという凄まじい轟音で急降下し、また上がる。それを繰り返すから、先生の声が聞こえない。学校の教室は3枚ぐらい窓ガラスを張っていた。模擬爆弾をおとす「ドーン」という音と煙が舞う、それが教室に入ってくる。花火の火薬みたいな臭いがするが、それが堪らなかった。

 貝拾いの浜辺に流れ弾

砂辺という村の近くの海で貝拾い、魚取りをしていたにとき、母が妹とぼくを引っ張って走って逃げた。足元に流れ弾がピィピィピィと撃ち込まれた。近くに実弾演習場があり、演習があるときは赤い旗を出すが、それを村の人が見落とした。浜辺には3メートルぐらい土嚢が積んであり、そこに機関銃で撃ち込むその流れ弾が飛んできた。嘉手納の村は、そんな凄いところでした。辺野古もこれから基地がつくられたら、もっと酷いことになりますよ。

▽Xマスには米軍サンタ

 嘉手納は、58号線が村を真っ二つに分断する。その道路を千人、2千人の兵士がカービン銃を担ぎ、「ワットフォ、ワットフォ」といって戦車、ミサイルを積んだトレーラーを先頭に行進する。ヤンバル(北部訓練場)で対ゲリラ訓練、戦闘訓練するために。ぼくら子どもは、米兵をカッコイイと思い棒切れを担いで最後尾で行進し、MPに追い払われたりしていた。

 アメリカ軍は、基地を開放してカーニバルもする。ジェット戦闘機、戦車を置いて乗せたり、機関銃の空砲を撃たせたりして融和的にお祭りをする。クリスマスには、嘉手納のグランドにヘリコプターからサンタさんが降り、子どもにノートとか鉛筆とかクレヨンをくれる。アメリカ軍は「ええ人やな」と思うわけ。

(つづく)

(注)米軍基地の島

 ベトナム戦争時には海兵隊が出撃し、B52爆撃機が連日ベトナムへ飛び立った。