森喜朗発言につづき、山田真貴子前内閣広報官問題は、ジェンダー・ギャップ指数が世界153カ国中121位という日本の現実を衝撃的に突きだした。「わきまえない女」の怒りの声が澎湃とおこり、「飲み会を絶対に断わらない女」が高官の座から転げ落ちた。女性解放を求めてきた者として、忸怩たる思いで半世紀をふり返った。■1970年前後から、政府・財界は生理休暇などの女性保護規定を剥奪する労働基準法改悪をもくろんだ。女性保護とは女性の身心を劣悪な労働条件から守る≪権利≫だが、女性の中でも電電公社(現NTT)の管理職になった影山裕子氏らが旗振り役になり、「保護は平等の足かせ」という論を振りかざし、改悪を推進した。生理休暇取得を闘い継いできた総評婦人部は「保護も平等も」と、強く反対。多くの女性グループ・団体が共に起ちあがった。 ■60年代からのリブ運動の国際的うねりを受け、75年国連による国際婦人年がひらかれた。平等の声の高まりに、「保護=不平等=差別」とすり変え差別を強化する動きも強まり、アメリカでは平等の名で女性にも徴兵制がしかれた。 ■他方、ノルウェーでは978年制定の男女平等法で、公的機関における男女割合を一定比率で割り当てるクォ−タ制を明記。世界へと拡大していく。■日本での保護剥奪をめぐる攻防は続くが、フェミニズムと労働運動の後退の過程で、「保護=権利を守る」主張は、政府・財界の思惑にのせられた「平等」要求へと軸足を移していく。85年、日本政府は女性差別撤廃条約を批准(72カ国目)するが、平等政策は採らず、保護剥奪と差別的搾取を強化するために、労基法改悪−雇用機会均等法制定、労働者派遣法をセットで持ち出し、86年施行。国鉄の分割民営化−総評労働運動つぶしと軌を一にするもので、戦後労働法制の根本を崩し、今日の非正規・貧困問題の起点となる攻撃だった。が、大きな反撃はできず無念の思いが残る。その後、度重なる保護規定の剥奪、女性は危険有害業務や深夜業や無制限の残業に狩りだされていく。男性の半分以下の賃金水準、家事・育児の重い負担は変わらず、職場ではセクハラ・パワハラがつきまとう。やがてパート・派遣などの不安定雇用が正規職の肩代わりをさせられていく。■「指導的地位」につく女性はわずかばかり増えたが、男の何倍もの頑張りと多くの犠牲の代償であり、女性間の格差・分断を拡大する要素でもあった。ちなみに先の山田真喜子氏の入省は84年。■80年代後半、政府・財界が同時に強化したのが「妻の座優遇」の政策だ。配偶者特別控除の創設、サラリーマンの専業主婦の年金負担の免除、遺族年金の比率引き上げ等。女性を、家事・育児を担う「家計補助の労働力」として固定化するために、「被扶養」の存在に留める政策だ。パート労働の拡大、低い時間給の固定化、男性の実質賃金の引き下げ、劣悪な社会保障政策と一体のものだった。■00年代以降、新自由主義の急激な進展の中、「女性の差別と貧困」問題は若い男性にも及び、ついに大半の働き人を呑みこむ。コロナ禍はその脆弱な社会構造を浮き彫りにした。女性差別を容認・加担してきた男性中心の労働運動、男社会も、「女の問題」が男の問題に、さらに社会全体の問題になっていることに向き合わざるを得なくなった。非正規雇用、シングルマザー家庭の過酷な現実をなくしてこそ、全ての差別を撤廃し、命と尊厳を守る道を拓く。女も男もLGBTQも、労働運動も、社会運動も、共に手をとり闘おう。