具志堅隆松さんたちが、県庁前ハンストで座り込んだ。県の公明、自民から防衛施設局に、南部の遺骨交じりの土砂は県民感情を配慮してほしいと申し入れがあったとも聞きました。
読谷村の県議から状況を聞いたところ、「県は以前、別の業者に出した採掘許可との関連で悩んでいる。もっと反対の世論喚起をして欲しい」ということでしたから、なんらかアクションを起こすつもりでした。
そこで琉球新報(3月16日)を見てびっくり。「県、届け出を受理する方向」という見出しに、胸におもりが落ちたような思い。安和に行く日なのに、気が重い…。
しかし、私の方にも早とちりがあり、受理したから、すぐ許可を出すことにはならないということです。ただ、県は自然公園法に基づき中止やその他の景観保全を求める場合、30日以内に結論を出さなければなりません。知事は「人道的にいけないということが、法律的につながるかを懸命に探している」と述べ、止める権限の洗い出しを庁内に指示しているそうです。苦労しているのです。
▽宜野座村が反対決議
宜野座村議会は、どちらかというと保守系。それが県下のトップを切って議会で決議するとは。
キャンプシュワーブに宜野座村からやってくる方に聞くと、「戦争中、宜野座は捕虜収容所になった。苦労とつらさを体験したからだろう」と言っていました。
私の義父の兄も、捕虜になって宜野座村に収容されていました。当時16か17歳。手先が器用で時計屋に勤めていました。日本脳炎の後遺症が残り、癲癇発作も。そのため他の兄弟は兵隊に行きましたが、本人は沖縄に残って、戦(いくさ)に巻き込まれ、身内と離ればなれになりました。戦後、「宜野座村の城原の収容所で姿を見た」と聞き、着物や食べ物を持って迎えに行った。
案内されたのは、名前の書かれた木の棒のところ。その下に遺骨となって葬られていたのです。喜びで迎えるはずが、悲しみの対面になりました。今か今かと帰りを待ちわびていた家族も、頭にバーキ(籠)を載せて坂を上ってくる母親の姿にうちのめされ、遺骨に涙したとのことです。
どこよりも早く議会決議を決めた宜野座の方たちは、このような苦労、悲しみを伝承してきたのでしょう。那覇市、南城市も決め、わが読谷村も決議すると。
戦場をさまよった住民たちの中には、身内が死んでも埋葬できず樹の下やガマの入口に遺体を置いて、「後で来るから」とその場を去ったと言います。親を失った子どもたちは、特にそうでした。
戦後、民間人によって散らばっていた遺骨が収集され、魂魄の塔に葬られました(現在は摩文仁の国立墓苑に)。しかし、まだ南部のどこかに埋もれている遺体や、爆撃で粉々になった遺骨の破片があるのです。『生きろ』という題で映画になった島田叡・官撰知事の遺骨もまだわからないのですから、推して知るべしです。(富樫 守)