「被ばく労働を考えるネットワーク」が発出した「3・11原発事故10周年声明」を本紙前号で紹介した。重要な告発と提起がなされているが、特に以下の点を強調したいと思う。

 �@「30〜40年後に廃炉完了」とした国・東電の福島第一原発廃炉計画は、過酷な放射線環境に阻まれ、まったく実現性がない。�Aそのような計画を強行していることが、廃炉作業に従事する労働者に無用な被ばくを強要し、かつ労働災害頻発の原因になっている。�Bしかも、国・東電は、典型的な重層請負構造を温存・活用し、労働者の雇用・被ばく管理・安全管理の責任から逃げ、下請け業者に丸投げして、労働者を使い捨てにしている。�C廃炉作業は極めて重大な国家的事業であり、しかも東電は事実上、国の管理下にある。そうである以上、廃炉作業に従事する労働者の労働条件について、国・東電が直接に責任を持つべきである。�Dデブリ(溶融した核燃料)の取り出しを断念し、現行の廃炉計画を破棄して、数百年にわたって管理する計画に抜本的に転換するべきである。

▼生命を破壊する高線量

 ところで、廃炉を阻む最大の原因は何か? ひとえに放射線量の過酷さである。

 今年1月に原子力規制委員会が実施した調査によれば、福島第一原発2号機および3号機の格納容器の上蓋(コンクリート製、約465トン)で、放射性セシウム濃度が2〜4京ベクレル(京は兆の1万倍)、放射線量は毎時10シーベルトを超えていることが判明。人間が1時間ほどで確実に死亡するレベル。ロボットでさえも、高線量で頻繁に故障するほどだ。事故から10年を経てなおこの数字だ。しかも、これはまだ格納容器の上蓋の話で、格納容器内部の状況は想像を絶する世界だ。

 改めて、人間はおろか全生命を破壊・否定するほどの高線量の世界がむき出しになっている。その深刻さに向き合い続ける必要がある。それが核エネルギーに手を染めた結果である。

▼スタートラインに立てず(※【表】挿入)

 福島第一原発の現状は【表】のようだが、「30〜40年後に廃炉完了」とする国・東電の廃炉計画では、遠隔操作で格納容器内のデブリ(1〜3号機で880トン)を取り出すとしている。しかし、通常の廃炉作業なら上蓋を外して核燃料を取り出すのだが、上で見たように格納容器の上蓋が高濃度に汚染していることがわかり、これでは、上蓋を外すことも困難になった。それどころか、格納容器を解体すること自体が不可能になりつつある。

 したがって、実際の作業は、冷却機能を維持・管理し、増え続ける汚染水を処理・貯蔵し、あとは周辺の瓦礫を処理・整備するだけ。つまり廃炉工程それ自体についてはスタートラインにも立っていないというのが正確な現状である。

▼社会変革の大きなカギ

 だから「声明」の通り、デブリ取り出しを断念し、十分に放射線量が下がるまで数百年にわたって管理するという計画に抜本的に転換することである。にもかかわらず、国・東電は「30〜40年後に廃炉完了」などと、実現不可能を承知の上でなお掲げている。

 なぜか? それは、実現不可能な計画を掲げ続けることで、政治的経済的に延命し利益を得る集団がいるからだ。さらに言えば、福島第一原発をめぐる国・東電の無為無策は、新型コロナ問題で露呈した日本の政治の無為無策と相似形であることだ。あるいは、日本の敗戦過程の指導者のあり様にも通底している点である。そこには、問題に向き合い、社会にたいして責任を取る、という概念が完全に欠落しているのだ。

 国・東電が、問題を解決する主体ではないということが、日々明らかになっている。つまり、資本とその国家の論理の亢進の果てに、破滅的な事態を生み出しながら、その下での問題の解決が不可能化している。では、福島第一原発の数百年にわたる管理を誰が担うのか?廃炉問題の行方は、日本の社会変革の大きなカギのひとつである。

 つまり、廃炉過程は、一方で、国・東電という社会的な実体の正当性が失われ、その“廃止”ということが現実問題化していく過程となり、同時に、福島第一原発の数百年にわたる管理という大問題の社会的な解決の方法と主体が提起されていく過程である。

 被ばく労働は、確実に命を削っていく労働である。その被ばく労働を、福島をはじめとする原発立地地域の人びとだけに押し付けてはならない。全ての民衆がそこに関わる責任がある事業である。また、社会運動の力で重層請負構造を打ち壊し、適正な雇用と被ばく管理・安全管理を実現する必要がある。そして、廃炉作業に従事する労働者と社会運動の力の中から“廃炉評議会”という問題が提起されるだろう。