
1549年、スペイン人宣教師ザビエルが鹿児島に上陸、日本に初めてキリスト教を伝えた。1571年にポルトガル船が来航、長崎の街建てが始まった。これを通常「長崎開港」という。以後、長崎はポルトガル貿易、キリシタンの街として「繁栄」してきたといわれる。その後、唐船も多数入港するようになり、ポルトガル貿易と並んで唐貿易も盛んになった。
1588年、豊臣政権による直轄領化で統制が強まる。その後、1600年4月、オランダ船が今の大分県に漂着。徳川家康は、オランダ・イギリスの目的がキリスト教の布教ではなく貿易の利益だけを求めていること、スペイン・ポルトガルの布教の目的が日本征服にあると告げられる。オランダ・イギリスは朱印船貿易を許可され、長崎・平戸に商館を設けて貿易を始めた。他方で、徳川幕府はキリスト教禁教政策(1624年)を強化してスペイン船の来航を禁止、1635年以降、鎖国政策が始まる。
1639年、ポルトガル貿易の停止(来航禁止)で鎖国体制が完成した後、徳川幕府はオランダに限定開国・貿易を許した。さらに唐貿易が主流となって中国の風俗、生活文化の影響を受けた。その中で独特の街並と長崎文化が形成されていった。まさに当時の資本主義初期の世界覇権の波にさらされながら、それをうまく受容したのが長崎の街建てと文化といえる。
▽カステラの誕生
ポルトガルの運んできたキリスト教、鉄砲、ペンとインク、タバコ。白砂糖はそれまで日本にはなかった。白砂糖が入ってカステラが生まれた。日本では最近、スポーツ選手などが練習休憩時の補食としてカステラを愛用する場面もあるようだ。
長崎から小倉に通ずるかつての「長崎街道」をこう呼ぶ。白砂糖は特別扱いされ、この街道を通って全国に運ばれた。商人、藩士、オランダ商館員、驚くことにゾウやラクダも往来していた。余談ながら日本のTV時代劇で、医者志望の青年が長崎でオランダ医学を学ぶため江戸を発つ情景が想い出される。
3本マストのオランダ船は船の安定を保つためのバラスト(底荷)として、石・砂の代わりに砂糖を積んで莫大な利益を得た。(つづく)