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▽雇用保険の遡及加入で

 1800人の受給実現

 阪神淡路大震災から26年の3月、ともに被災地運動を担ってきた大西和弘さん(3月9日、享年75)、長谷川正夫さん(3月25日、享年70)の2人を相次いで失った。痛恨の思いだ。

 あの阪神淡路大震災。長谷川正夫さんとの出会いは、長田区長楽公園の震災相談テント(95年)だった。オランダシューズが震災で焼け、社長も韓国へ帰ってしまい、「職安ともかけ合ったが社員の雇用保険ももらえない」という相談だった。給与明細の何枚かと喫茶店の通い帳が在職期間・賃金額の証明となり、長谷川さんと何人かの雇用保険受給につながった。当時、港合同と共に職安交渉を行ない、手続きの要件緩和や集団申請による遡及加入・離職の一括手続きや給付期間2カ月を延長させ、1800人の雇用保険未加入者の受給を実現できた。

▽仕事開発事業から

 労働者企業組合へ

 10万人におよぶ震災失業者に、行政による雇用創出・公的就労を求めた。被災地雇用と生活要求者組合をつくり、その先頭に長谷川さんが立った。雇用を求める何度もの集会、県庁デモや県交渉、労働省交渉の末、「しごと開発事業」が実現した。労働者企業組合がその受け皿企業となり、5年間80人近い震災失業者とともに汗を流した。他方で、労働者自らの力で雇用を確保するため、企業組合を立ち上げた。

 そうしてナース・シューズ製造にたどり着いた。震災の時、医師やナース、医療労働者の献身的な活動に恩返しができるとみんな大喜びした。以降、20年以上にわたり、20人を超える雇用をつくり守った。長谷川さんが仲間とともに助け合い、たたかい、生きてきた道はみんなの胸に残っている。それを次に伝えていくのは、私たちである。

 

▽雇用と生活要求者組合

 大西和弘さんも逝った。長谷川さんとともに、雇用と生活要求者組合の副代表として厚生労働省や東京の集会に何度も出向いた。沖縄へもいっしょに行った。米軍兵士によるレイプ事件(95年)に抗議する10万人県民大会のとき。「新幹線も、飛行機も人生初めて」と笑っていた。震災時は、配送車に乗っており、雇用保険の遡及加入の手続きに伊丹の職安へ。結局、条件を満たさず受給できなかったように思う。

 「あんたらアホや。一銭にもならん活動をようやっとうわ」と、笑いながら誉め言葉として労ってくれた。根っからの職人らしく、難しいことを日常のわかりやすい言葉で説明してくれる天才だった。「わかりやすく言うたら、こうこう、こういうことや。そうやな」と。

▽苦労人だからこその、温かさ 

 リフォームの達人、丁寧な仕事、下請けの面倒見の良さは、見ていてよくわかった。私の親戚の家も来てもらい、パチンコ玉を使って家の傾きを調べ、床下に入り水回りを丁寧に見てくれた。労働者企業組合の工場移転のとき、いまの組合事務所の物件探しに骨を折ってもらった。組合の慰安旅行は、いつも世話係だった。

 みんなが集ると、人一倍に楽しませ場を和ました。大西さんの還暦祝い。赤いちゃんちゃんこにドラえもんの人形を背負って満面の笑みで踊る姿に、一同大爆笑。今も、その写真は語り草になっている。家族を養うため必死で働いてきた、人に優しい根っからの苦労人。糖尿病が悪化し倒れてからは、家での療養、入退院を繰り返す闘病生活が続いた。

 お二人とも、本当にご苦労さまでした。ゆっくり休み、ご家族や私たちを見守ってください。(石田勝啓)