
また、女性差別、女性の労働問題の根本に家族制度という問題があるということが実感としてもよくわかってきた。家族制度の下、女性が無償で、さらには有償であっても低賃金で社会的再生産の活動(注)を進んで担うべきとされる、強いられることによって成り立つ社会構造こそが問題であり、労働運動においてもそこを問いつつ、さまざまな権利獲得をめざしていくべきなのだと感じさせられた。
本書は、この他、運動内部のハラスメントや抑圧の問題を考えることも重要なテーマとなっている。著者は、自身が社会運動にかかわるが、そこも男性社会でありハラスメントや悪意と直面する。そのうえ運動の中だからこそ「ささいな問題」と軽視されたり、そもそも問題が理解されなかったり、「内部の分断をもたらす」と公に語ることがタブー視される。その中で、どう立ち向かうべきかと格闘してきたことが綴られている。
19年末、私の身近でも性暴力事件が起き、その対処について議論が継続している中で本書を読んだので、この部分は特に深く考えさせられた(『未来』20年8月6日付)。その性暴力事件への対応をめぐって、私たちは組織内で激しく対立した。それは重層的であり、一言で書き表すことは難しいが、主要な対立点としては私には次のようなところがあると感じられた。
対立したどちらの側も、被害者への謝罪が必要と認めつつも、一方は活動家である加害者が事件を起こした最大の原因は加害者の思想的な後退や遅れであり、大事なことは加害者をあらためて正しく導くこと、運動、組織がそれをやり切れる力をつけること、とする考え方であった。もう一方は、事件の公表、加害者にたいする糾弾、厳しい処断こそが第一であり、まずそれを果たすことが組織の社会的責任であるというようなものであった。
後者は、被害者が強く望んだことでもあり、被害者の思いにまず応えるべきとの立場でもあった。前者も、被害者の思いに応えるつもりが全くなかったとは思わないが、そのこと以上に運動、組織はやはり無謬であるべきでそのような組織として再生できることを示そうとしていたように思う。
私は、加害者を、そして組織を、あらためて正しいあり方にしようとすることには、もはや賛同できなかった。まず、加害者には事件後まともに加害行為を省みようとする姿勢がかけらも感じられなかったからである。そして、この事件をきっかけに、多くの女性の仲間が、これまで運動の中で被害を受けてきたことなどを公表して今回の事件への糾弾に立ち上がっていたことが大きい。
(つづく)
(注)「社会的再生産とは、生命を生み、維持し、継続させる活動と制度を指している。具体的には出産、育児、家事、介護などの活動および住居、公共交通、病院、学校などの制度である」(『99%のためのフェミニズム宣言』解説より)