▽どうすれば伝えられる

 沖縄に通うようになり、沖縄の人たちに友だちが増えました。いちばん印象にあるのは、沖縄では若い人たちが中心になって憲法カフェなどを開催し、勉強していたこと。米軍基地があり、戦争に向かうことが見える沖縄。私はとても複雑でした。ここに自分が願ってきた“平和を、ともに考える仲間”がいるとしても、私は本土の人間で…何もできず本当に申し訳ない…という思いがいちばんにありました。本土で、沖縄の現実を知らない人もいれば、知っていて知らないふりをしている人もいるんだろう、そんななかで、本土で伝えなければならないことの重さを痛感し、沖縄を去りました。

 帰宅後、沖縄で感じたことをどう本土で伝えることができるか…この現実をどう言葉にしていくか…(いつもそれは考えていることではありますが)、ここでなにができるか…沖縄についてなにができるか、深く思考しました。そこから、何度も沖縄に通いました。それは辺野古ゲート前に通い詰める前のことですが、沖縄には通っていました。 

▽なんでサンゴの海を

 14年7月に、「辺野古が大変なことになってるさ!!」と、沖縄から電話が。辺野古埋め立てに向け工事車輛が入り、ゲート前の抗議行動が始まったとのことでした。次の月、8月から毎月辺野古へ行くようになりました。早朝から何度もトラックが入り、夜中の搬入もありました。朝からテントを張りゲート前に座り込みました。歌ったり、話をしながら座り込みました。 

 子どもに、海を見せたことがあります。子どもたちは、「こんなに美しいサンゴの海を埋めるのはおかしい、止めてほしい!」と素直に疑問を口にしていました。私は、そういった当たり前の声を広めていくことが重要なんだと、とても刺激されました。

 そこからずっと、自分自身を見つめることも含め「アカンことはアカン!」と素直に言うことの大切さを思っています。そして、それは難しいことではないとも思っています。子どもが疑問に思うことを、なぜ?と聞くように柔軟に、日常をとらえていたいと思っています。

▽ 『ケサラ』 

 ゲート前で初めて歌ったのは、『ケサラ』でした。

 歌うと、「沖縄の闘いに、全国から歌がきたぞ〜」と、とても喜んでもらえました。あー、歌なんや!!やはり歌は大切なんだ、私は思い知りました。「歌は心」とか「歌こそ力」と、これまでの人生で聞いてはきましたけれど…やはり歌がゲート前の人々を鼓舞し、勇気づけていました。「歌は力」という言葉は、沖縄で確信になりました。もっともっとライブで歌うなかで、伝えていきたいと思います。

 辺野古や高江、石垣島、宮古島…帰路に着く度、毎回考えさせられ、「どうしたらいいんや…」という気持ちに覆われます。それは毎回同じで、帰ってからどう伝えるか、どうすれば広がるのか、飛行機の中で考え続けています。そして、自分の立ち位置を考え、何度も自分の場所でそう発信していくのか、自分へ問いながら、詰めていっています。

▽「政治」はNG? 

 「政治的なことは、控えて」と言われることが、ときどきあります。少し前に「辺野古のことは、チラシから抜いて」と言われ、話し合いになりました。辺野古が入るとチラシを店に置いてもらいにくいという主張でした。辺野古というと政治的と思われる、と。 

 でも政治的ってなんなのだ…。「辺野古がチラシに入れられないんだったら、私は出ません」と、私も意見し意志を曲げませんでした。政府の決定が中立というなら、日本がかなり右傾化している、それが最近の圧力から感じる印象です。

(つづく)