
1635年、徳川幕府により唐船の来航は長崎に限られ、日本人の海外渡航と帰国が禁止された。
鎖国時代、長崎の人たちは、中国からやってきた人たちを親しみを込めて「唐人さん」「アチャさん」と呼んだ。長崎文化は中国色が豊かだが、中国文化そのものではない。それは交流の中から作り上げられた独特の文化のようだ。
唐貿易の取引高は、オランダ貿易の3倍以上、収益も2倍はあった。長崎の景気は、唐船の入港数に大きく左右されていた。唐貿易によって長崎の市中に流れ込んだ莫大なお金が、その豊かさをもたらした。
日本からは、銅、銅器、俵物、昆布、するめ、シイタケなどを輸出。唐からは、生糸、反物、薬種、香木、砂糖、鉱物、染料、塗料、皮革、書籍などを輸入した。
時が経つにつれて入港船が増え、密貿易やキリスト教の取り締まりなど治安対策が必要となり、唐人屋敷が造られた。その主な目的は密貿易対策であった。屋敷は外部から厳重に遮断され、出入りが監視された。しかし、そのすぐそばには広場があり、許可をもらった市中の商人が野菜、魚、日用品などを売っていたので、そこで唐人と長崎人との交流はおこなわれていたのだ。
▽インゲンまめ
唐人屋敷の独特の生活風習は、身近にいた長崎人に大きな影響を与えた。今もそれは残っている。�@正月15日の龍踊(じゃおどり)、�A唐人踊り �Bお盆の15日に亡くなった人を供養する、彩舟(さいしゅう)流し—精霊(しょうろう)流し �C航海安全を祈願して行う、媽祖(まそ)行列。
唐船の船員は滞在中、奉行所の許可を得て外出し、唐寺に参詣した。禁教政策のもとでは、仏教徒であることを証明する必要もあった。長崎「四福寺」の中の崇福寺は、長崎出身の歌手、福山雅治が主演した大河ドラマ『龍馬伝』のロケ地として知られている。
「インゲンまめ」で有名な隠元禅師は、たび重なる招請を受けて、1654年、福建省黄檗山(おうばくさん)より来崎し、興福寺と崇福寺に入った。その後、江戸幕府や大名の支援を受けて京都・宇治に黄檗山萬福寺を開山。隠元が伝えた黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の宗教と文化に衝撃を与えたと言われている。黄檗宗は今も続く日本の三禅宗のひとつである。
隠元は、身分制度が徹底していた日本に、身分に関係なく食事やお茶をみんなで楽しく共にする習慣を伝えた。レンコン、タケノコ、スイカ、ナス、モヤシなどを持ち込んで、飢饉を救ったとも言われている。長崎には「黄檗文化」と呼ばれる生活様式や美術工芸が今も残っている。(つづく)