佐古監督の映画「生きろ 島田叡」を鑑賞しました。神戸市議会が3月26日、「辺野古基地建設について沖縄県と対話を深めることを求める意見書」を自民、公明も賛成し決議しました。その意見書を求める陳情文は、「神戸市に生まれた島田叡は、沖縄県最後の官選知事であり、その縁は現在も続いている」と述べていました。
映画では、戦時体制下で知事たる行政官が少しは抵抗できたとしても、ほとんど軍に協力することでしかなかったことがわかります。例えば、沖縄本島に米軍が上陸する直前の3月、陸軍第32軍が県当局に学徒の防衛召集に備えた書類を作成するよう命じます。島田は、学校を通じ集めた学徒名簿を軍に提出しました。軍と良好な関係を結ぶ中で県民疎開や、食料の分散確保など喫緊の課題が迅速に処理できたのです。
しかし、日本軍の防衛線である嘉数高地の戦いで敗れ、司令部のある首里が攻撃されます。軍は南部に撤退するとき、島田は住民をまき込むことに危惧を抱き、反対しました。叶わなかったが、島田の良さはここから発揮されます。「生きて虜囚の辱めを受けず」という訓戒に背き、周辺には「生きろ」と伝えました。軍の論理から離れたのです。人間島田に変わりました。島田官選知事は、初めから「生きろ」ではなかったのです。
1月31日に赴任した県庁での訓示は戦争鼓舞の挨拶でした。戦いの中で死ぬ覚悟で来たのです。家族からも官僚仲間からも、沖縄赴任は死地に行くようなものだと言われていました(沖縄県民は、そんなに恐ろしい所に住んでいるとは思わなかったでしょうが)。「死地」から沖縄県民の命を救うのではなく、「寄り添い、死ぬ」という覚悟で日本刀と青酸カリを持って赴任しました。
首里から南部に地獄のような撤退を経験し、軍の実態を見て、「生きろ」と言うのです。しかし、県民全部には伝えられませんでした。島田叡の苦悩は教訓として受けとれます。「戦時体制」をつくらせない日ごろの努力が大切。体制が出来たら抵抗し難いのだと。
南西諸島は最近、与那国、八重山、宮古島に自衛隊基地が出来ました。辺野古新基地も日米共用を匂わせています。今年度の教科書の中には、反省を込めた一中健児の慰霊の塔を「顕彰碑」として記載、ひめゆり学徒隊を「ひめゆり部隊」と書き、軍組織の一つに位置づけ、戦争に「住民よく協力」と記述しています。
「戦時体制」をつくらせない、それは今なのです。神戸市議会の決議が、生きるように願いたいものです。なお、19年までに「辺野古問題の民主的解決を求める陳情・意見書」が採択された全国の地方自治体は、30議会あります。そのうちの東京都小平市では、市長選挙(4月4日)で自公候補を破った市長が誕生しました。(冨樫 守)