▼国家権力の掌握を拒否

 前回紹介した「フィアレス・シティー グローバル・ミュニシパリスト運動へのガイド」(2019年、注)の内容に入ろう。第1章「わたしたちにふさわしい未来」で、米国のジャーナリスト、デビー・ブクチンは、「どのような種類の政治組織が最もよく国家権力に対抗しうるか?」と問題を立て、「ミュニシパリズムは国家権力の掌握を拒否する」と宣言する。なぜなら「ソ連の事例を見て誰もが知っているように、それは希望のない追求であり、袋小路に行き着くだけだ。なぜなら、国家は、資本主義であれ社会主義であれ、顔のない官僚制を備えており、決して人々に応答しないからだ。」

 ここから、ブクチンは、社会民主主義的な議会主義と福祉国家路線を否定する。「私たちがぜひとも必要としている根本的な社会変化は、単に投票場に足を運ぶだけでは決して達成されないということはますます明らかになっている。社会変化は、私たちに15ドルの最低賃金や、無料の教育、家族休暇を公約する候補者や、あるいは社会正義に関する決まり文句を並べるだけの候補者に投票することによっては実現されないのである。私たちが、多くの悪の中からよりましなものに投票すること、社会民主主義が私たちの進む道に投げ込む死骸に投票すること、に自らを閉じ込めてしまうとき、私たちは、私たちを永遠に押さえつけておくべく設計された中央集権化された国家構造の術中にはまり、それを支持することになるのである。」

 ブクチンの指摘を待つまでもなく、「議会主義と福祉国家」という社民路線は、「顔のない、人々に応答しない」官僚制および代表制に依拠した路線であり、この構造の中で投票という力しか許容されない人々は、数年に一度の投票が終われば代表をコントロールする力を持たず、まして官僚制に対抗しうる自らの力を持ちえない仕組みであることは明白であろう。

▼街頭だけでは

解決しない

 だが、他方でブクチンは街頭行動だけでも問題の解決にはつながらないと指摘する。「同時に、活動家は、要求を掲げて街頭に出るだけでは社会的変化をなしとげることはないということを認めなければならない。大規模な占拠闘争やデモンストレーションは国家権力に挑むのかもしれないが、それを奪うことに成功していない。抵抗の政治や、社会の周縁部の組織化にのみ従事する人たちは、権力が常に存在し、単純に消えてなくなったりしないことを認識しなければならない。」

 つまり、「議会主義」にからめとられることは否定しながらも、同時に一部のアナーキストに見られるように既存の国家権力から距離を置こうとする(置くことができると考える)態度を否定するのみならず、街頭闘争によって国家権力に挑んだとしても、相変わらず国家権力はそこにあり続け、問題は解決しないというのだ。

 

▼住民による自己統治

 そこでブクチンは次のように問いを立てる。「問われるべきは、権力は誰の手に帰するのか−中央集権的な権力を有する国家にか、それとも地方レベルの人々にか−である」と。

 こうして、国家権力ではなく、地方レベルの人々(the people:「民衆」「人民」)の権力を非議会主義的な方法で形成し、住民による自己統治を推進することが取るべき道として示される。

 「ミュニシパリズムは、権力を普通の市民に取り戻すこと、政治を行うことの意味、一人の市民であることの意味を再発明することを要求する。真の政治とは議会政治とは反対のものである。それは、基部から、地方議会から始まる。それは透明であり、自己の(選挙区の)近隣の住民組織に対し百パーセントの説明責任を負い、談合を行う代議員ではなく、(選挙人の:訳注)代理人であるような候補者を持つ。それは、地方議会のもつ権力を変革すること、ますます啓発されつつある市民によって変革されることを祝福し、まさに政治を行っている只中で、私たちが新しい人間になること、資本主義的近代に対するオルタナティブを建設することを祝福する。」(傍点は引用者)(つづく)

(注)この冊子(英語版)は以下のURLから無料ダウンロードできるhttp://fearlesscities.com/en/book