1964年6月、シャンソン歌手・石井好子さんのお供として沖縄に渡った寺島尚彦さんは、コンサート後も残り、地元の人に本島内に残るさまざまな戦跡を案内された。

 訪れたどの場所も、そこがかつての戦場かと見まがう静かなたたずまいを見せていた。その末に日本軍と多くの県民の、終焉の地である南部島尻・摩文仁の激戦地を覆っている一面のサトウキビ畑に踏み込んだ。

背より高いサトウキビが一斉に風をはらみ、葉ずれの音が体を包んだ。案内してくれた後援者の男性がふとたちどまり、ポツンと寺島に語り掛けた。

 「あなたが今、歩いているこの土の下に、まだ多くの戦没者が眠ったままになっているのですよ」。

 寺島は言う。

 「その瞬間、突然、クラクラとして、物凄い風の音が戦争で亡くなった人たちが号泣しているような、嗚咽しているような、あるいは魂の怒号—なぜ俺たちはこんな目に遭わねばならなかったのだーッと叫んでいるような、そういう声を耳元で聞いたような気がしました。空はあくまでも青く澄み、夏の太陽が燃えているはずなのに、私の周囲はとても暗く感じた。この風の音は何だ、何か違うぞッ、これは何かにしなければならない—という気持ちが潜在的に僕の心の中のどこかに芽生えたと思うのです」。

 これは『ざわわ、ざわわの沖縄戦』(田村洋三著)からの一節です。

 誰しも死者を背負って、死者を意識しながら生きている。

 毎月、1日と15日には仏壇にお茶をささげ、命日は家族があつまり、故人を偲び、春分、秋分にはお墓に行き、お盆には祖霊を招き、正月には祖霊を迎える。それに加えて、沖縄の場合、正月16日(ジューロクイチ)はあの世の正月と言って墓に行き、4月は清明祭として一族が集まり、お墓(亀甲墓)で御馳走を食べ、七夕はお墓掃除をしに行き、お盆を迎え、戦没者慰霊を行ない…などなど。

 死者と対話するには遺骨を前にしたほうが、対話しやすい。人によっては死者の声も聞こえる。「さとうきび畑」の作詞・作曲をした寺島尚彦さんは確かに死者の声を聞いたのです。

 戦場となったサトウキビ畑では、直撃弾で骨が飛散し、血が大地に溶け込んだ戦没者もいます。これらのお骨たちが、今また、「ざわわ、ざわわ」とつぶやき、怒鳴っていることでしょう。そのつぶやき、怒鳴りの原因は、採掘業者がこの戦場になった場所の土砂を掘り、辺野古の海を埋め立てに使おうとしているからです。そのもとは、防衛省が辺野古に埋め立てる土砂調達を計画したことにあります。

 県は、私権につながる業者の採掘中止命令は無理とし、措置命令にしました。遺骨を収集したのち、採掘をし、終わったらその穴を埋めるという条件です。

 もう遺骨は大地と一体になるほど、風化しています。長年遺骨を発掘してきた専門家も見分けるのに難しいと言っています。業者が拾うのは難しいことなのです。

 県民は、国に対して、戦場になった所から採掘された土砂を、辺野古に埋めるな、と声を挙げています。沖縄県議会は全会一致で反対し、各市町村でも反対決議をして、国に決議書を突きつけました。

 6月23日の慰霊祭には、現場でガマフヤー具志堅さんがハンストします。全国とも手を結んで採掘させないようにしたいものです。そこには県民ばかりの遺骨ではありません。日、米の兵士の遺骨もあるからです。遺骨はざわめいています。「私たちを二度殺すな」と。(冨樫 守)