原爆の直後に、生まれた。子どものころ南太平洋で水爆実験が繰り返され、雨の日は「濡れるな」と注意された。2千回を上回る大気圏核実験が行なわれ、原爆はすぐに核発電、原子炉を積む艦船になり、核時代の世界が続いてきた。被爆76年目の夏、個人的な体験(前半)を思い起こし、「途、なお半ば」の核兵器・核発電の廃絶(後半)を探ってみる。(竹田雅博/文中、敬称略)

▽「核の世紀」

 「1944年、中学生のとき。マンハッタン計画を知るよしもなかったが、『ウラン235を応用する爆弾を想定できる段階に入った。その可能性は平和への力か、破壊への力か』という、短いテーマの宿題が出された。翌年8月、ほかならぬアメリカがそれを手にし、日本の都市に使用したという衝撃。恐るべき核の世紀が幕を開けたことを知った」(ダニエル・エルズバーグ『国家機密と良心』)。「2011年。核と人類は共存できないと、あらためて強く思った。私の体験から、戦争と核を考えてほしい」(『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』小学館刊、米澤鐡志)。

 「原発は破綻した科学技術、事故はかならず起こる」(米原子力規制委員会NRC、グレゴリー・ヤツコ元委員長)。「水と電気が止まれば、原発は原爆と同じ」(樋口英明・元福井地裁裁判長、19年8月6日、広島)。ビキニの証言を続けた第五福竜丸の大石又七さんが、3月に亡くなった。

 体験的とは、おもに原爆後10年、20年の記憶に基づく。そして私たちは、このような過去と現在にいる。

 

▽語られなかった体験

 被爆を証言できる人たち、当時小学生だった人は既に80代半ばを超える。

 同世代の知人は2歳で原爆を受け、両親は被爆死した。原爆孤児となり、5歳だった姉と別々に親戚に引きとられた。「2歳だった、(あのような目に合いながら)なにも憶えとらん。悔しいよね」。小学生から新聞配達を続け、定時制高校卒業の際は「両親がいない」と就職を断られる。結婚のときも難色を示された。別々に育った姉と「初めて、いっしょに旅行に行ったのは65歳だった」という。

 私の家族や親戚、近所にも被爆者がいたが、ほとんど原爆の話を聞いたことがない。法事など親戚の集まると、「あんとき、どこにおりんさった」「死体を踏まずには歩けんかった」と、ひそひそ声。ラジオからは、「原爆病院で何人亡くなった」とニュースが流れていた。当時、日赤広島病院を、ふつうに原爆病院と呼んでいた。福島事故後に思い出したが、原爆後10年ころ、年上の従兄弟たちが東京へ進学し「広島から来たというと下宿を断られた。困ったよのー」と、後に言っていた。

 

▽気持ち悪い原爆ドーム

 子どものころ、原爆ドームの傍を通るのは何となく気持ちが悪かった。何度か保存工事が施され、今は少しきれい過ぎるように見える。繁華街にある住友銀行石段に「焼きついた人影」は、そのままだった。71年に移設され、いまは資料館が保存している。

 ドームから元安橋を渡ると、千羽鶴に埋もれる佐々木禎子さんの「折鶴の像」がある。原爆のとき私は母親の胎内、その9月生まれ。家は市内から離れており母親は直接被爆しなかったが、白血病は当時は不治の病気であり、「ぼくは大丈夫だろうか」という不安にかられた。

 兄2人が被爆し次兄は死亡、上の兄は重症を負いながら母親の里にたどり着いた。60歳を過ぎ、「2人以上の被爆者と接した妊婦の子は、胎内被爆の可能性がある」と聞いた。翌日から広島に入った父親や伯父、兄と、母親がどの程度接したのか。「わが子ながら幽霊、看病するのが嫌じゃった」と話したことがある。2、3週間ほど付きっきりだったようだ。父母も、その兄も没し証言できる人はいない。

 

▽土蔵の黒い弁当箱

 父親と伯父は、下の兄の遺体も遺骨も見つけることができなかった。中学校1年生320人余は、爆心から約500メートル付近に集合していた。「模様に見憶えのある」弁当箱に、付近の砂を入れ持ち帰った。弁当箱は古新聞に包んで土蔵の奥に無造作に置いてあった。小学生のころ、たまたま土蔵に入り何だろうと開け、気持ちが悪く元の棚に押し込んだ。その後、取り出されることもなかった。父が95歳の高齢になったとき、生き延びた兄が資料館に寄贈した。「全滅した廣島2中の遺品」として収蔵されている(常設展示は同じ2中の折免くんの弁当箱)。

 伯父は朗らかで物事にこだわらない人だったが、伯父も父親も兄も、話さなかった。兄は、原爆の話題が出ると不機嫌になる。どこで被爆したのかも聞かされなかった。「鶴見橋近くに集合中、ピカッと光った。熱いっ。顔に触ると、ずるっと剥け、直後に吹き飛ばされた」とわずかに書き残した。66年後のことである。

 

▽「8月6日没」の墓標

 兄は、広島の新聞社に長年勤めた。広島の新聞として「原爆と核」を、たびたび特集する。どういう気持ちで、その仕事をしていたのか。社屋は、被爆死した弟を含む320数人が刻まれた慰霊碑の川向いにある。平和公園の足下には、いまも多くの遺骨が埋もれ、数十の慰霊碑が並ぶ。そこは彼の通勤経路でもあった。日常は、単なる一つの公園として通ったのかもしれない。

 広島は浄土真宗の地である。原爆ドームの北に、お寺が集まる寺町がある。寺々の墓地に「昭和20年8月6日、7日、8日…没」と彫られた墓石が並ぶ。母親は毎朝、仏壇へお参りを欠かさない人だった。私が中学生のころ、8月5日の夕飯のとき「明日は命日じゃ。丁寧に仏壇に参ってやろう」と、ぽつりともらした。妙な雰囲気に、ふと父親を見ると声を出さずに滂沱と涙している。気拙く、黙って食事を終わった。

 後に高齢になった母親は、「あがぁな(あのような)ことは、二度とあってほしゅう(ほしく)ありません」と言ったことがある。

 心身の苦痛に堪え、被爆を証言する人たち。その証言と継承は、三たび熱核兵器を人間の頭上に投下させない大きな力となってきた。同時に、語ることなく亡くなった10数万の人々、生き残りながら話さなかった人たちがいる。死者は、もちろん語ることはできない。(つづく)