福島原発事故にもかかわらず、原発輸出を「成長戦略」の柱として強行した安倍政権(当時)の本質を明らかにし、たたかいを模索する本。

 インドで50基の原発を新設する計画に、各国が攻勢をかける中、東芝、日立、三菱もプロジェクトを推進。クダンクラム原発では、数千人が長期にわたりハンストを続け、11年末までに、のべ5万6千人が拘束された。死者3万人、負傷者50万人を出した米ユニオンカーバイト社毒ガス流出事故をきっかけに、反原発運動が始まったという。

 トルコは、チェルノブイリ原発事故による放射能プルームが上空を通過し、空間線量が普段の千倍になり、がんが激増した。反原発運動が激しくなり、アユック原発建設計画に159キロの人間の鎖が続いたという。そのトルコで、世界最大級の原発事故を起こしたロシアと組んで進めていたシノップ原発建設から日本は撤退した。

 ベトナムでは福島事故後、民主党政権下で原子力協定が結ばれた。政府の弾圧恐れず、有志26人が抗議声明を出した。直後、代表の研究所が襲撃された。しかし政府内から原発反対を表明する大臣が現われ、16年には、国会の代議員約500人のうち92%が、政府提出の原発計画の中止案に賛成。現在、計画はストップしている。

 台湾の反核運動のフラッシュモブが面白い。馬英九総統(当時)の「原発に反対の人を見たことがない」という暴言に対し、「我是人、我反核」(私は人だ、私は反核だ)アクションが始まった。総統府前大通りで60人が「人」の人文字をつくり、「「我是人、我反核!」とシュプレヒコール。一瞬で散会するフラッシュモブがさまざまな工夫され、ネット上でまたたくまに広がった。それが13年、全国20万人の大集会につながり、16年にほぼ完成していた第4原発2基の稼働・工事凍結の発表にこぎつけた。

 原発政策は、民主主義の弱いところに流れ込んでいく。それへの抵抗は、民主主義を取り戻しす行為なのだ。(村井)