私の住む読谷村喜名集落は、もともとは東に読谷岳(クール山)が東西に走り、衝立のように立っている麓。山は高さ100メートルもないのですが、戦前は旧日本軍が防空壕を掘り、現在は米軍の弾薬庫となり、立ち入り出来ないところです。西は平らな陸地であり、旧日本軍の北飛行場跡です。陸地の端からは下りになり、海岸に至ります。住民が集団死したチビチリガマなどは、その途中にあります。現在の私の家は、飛行場の東の端に位置しています。

 この飛行場(今は読谷飛行場)建設は、1943年8月、突如として民家を立ち退かせ、始まりました。徴用令で住民などを集め、ツルハシで石灰岩をつぶし、モッコ、馬車で土を運び出しました。当時としては桁外れの予算を費やし作った県内最大、東洋一の飛行場でした。

 ほぼ人力で作っていたため、完成は沖縄戦の開戦間際でした。その上、守備の要の精鋭部隊である第9師団が台湾防御のため引き抜かれ、軍は戦いの方針を変更し、米軍上陸1日前に北飛行場の破壊を命じます。その時は特設第1連隊という戦闘能力が低い部隊が急きょ編成され、破壊を担うのですが。地元読谷からの補充300人を合わせ1200名が対応にあたり、かつ上陸してくる米軍の進行を遅らせる任務を負いました。

 そもそも沖縄戦においては、兵員の差がすごい。米軍の54万8千人に対し、日本軍は11万6千400人ですから。読谷上陸2日目には部隊は追い詰められます。読谷山の谷にある壕に隠れていると所を見つかり、袋のネズミのごとく砲撃を受け、苦しくなって壕から出てくるところを片っ端から撃たれ、死骸がそこら中に転がっていたと言います。

 戦後、喜名集落民は収容所からすぐには元の集落に帰ることが許されず、帰り始めたのは1947年。翌年48年に移動が終わり、まず始めたのが遺骨収集。その数700柱余りで、名前が分かっているのはごくわずかです。その遺骨収集に、当時本土では「住民ばかり遺骨を収集している」という非難があがっていました。そこで政府が確認に来て埋葬状況を見て、誤解を解いたと言います(6月19日の報道特集より)。

 喜名集落においても戦没者の遺骨には敬意を払い、住民と日本兵を区別しませんでした。毎年5月30日に、集落の慰霊祭を行なっています。

 現在から考えると、3年も経ってからの遺骨収集です。また当時、生活の余裕のなさから充分遺骨を拾えたか、気になります。特設第1連隊の遺骨は、その後米軍により立ち入り禁止になった場所に散乱していました。

 チビチリガマで集団死した住民の遺族はガマの中へ人が入るのを嫌がり、立ち入り禁止にしています。それは、まだ拾いきれない小さな遺骨が踏まれるのを嫌っているからです。同じように、南部のまだ拾いきれない県民と兵士の遺骨が、土砂と一緒にされ辺野古の海に捨てられるのは我慢できないでしょう。宗教者の抗議の断食は、6月21日から23日まで摩文仁の祈りの場で続けられました。

 人々は何を祈ったでしょうか。(冨樫 守)