狭山事件の脅迫状は、石川一雄さんが書いたものなのか。弁護側は通常審段階から、筆跡鑑定などにより「脅迫状と石川さんの上申書は異筆である」「事件当時の石川さんの読み書き能力から、脅迫状は書けない」としてきた。

 第3次再審請求審で、新たに森実・大阪教育大学教授、魚住和晃・六甲筆跡科学研究所所長による2通の新鑑定書が出された。証拠開示された「取調べの音声(録音)記録」には、取調べの刑事が「こうだろう、小さい『っ』だ」など、石川さんに一字ずつ説明しながら、“脅迫状を届けに行った”架空の道筋を書かせている様子が残されている。

 「識字と冤罪—取調録音テープが語る58年目の真実」狭山事件学習会が、神戸市内で開かれた(7月10日、狭山再審を求める市民の会・こうべ主催)。講師の七堂真紀さんは狭山事件再審弁護団の一人。森・魚住鑑定にもとづき、事件当時の石川さんが非識字者であり、脅迫状を書くことはできず、犯人ではありえないと話した。

 学習会には、大阪・東住吉えん罪事件の再審で完全無罪をかちとり、現在、国賠訴訟を闘っている青木惠子さんが参加し、「国賠訴訟に必ず勝利し、狭山再審実現につなげたい」とあいさつした。

▽明らかになった非識字

 七堂真紀・弁護士は、次のように問題点を説明した。

 ——憲法には「自白のみで有罪にはできない」ことが明記されている。そのため、自白には補強証拠が必要とされている。それは、「刺し殺しました」という自白に対し、「刺し殺された死体がある」という程度で足りる。検察は状況に応じた自白をとればいいことになる。一審判決は、その補強法則に則っとり「自白は信用できる、自白を補強する証拠がある」という論理構成だった。

▽確定判決の証拠構造

 これに対し確定判決は「自白を離れて客観的に存在する物的証拠の方面から、これと被告人との結びつきの有無を検討し」「ついで被告人の自供に基づき調査したところ自供どおりの証拠を発見した。それゆえ自白には信用性がある」と、二段構えの構成をとる。

 自白以外の客観証拠として一番いいのは指紋だが、狭山事件では石川さんの指紋はどこからも出ていない。それゆえ、犯人が書いたとされる脅迫状が最大の問題になる。

 石川さんの筆跡と脅迫状の筆跡を同筆だとした科捜研技官の鑑定に対し、異筆だとする多数の弁護側鑑定が出されてきた。どちらの鑑定を信用し、採用するか。確定判決は「教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明を見ても誤りが多い上、漢字もあまり知らないことが窺える」としつつ、「本件脅迫状の文字は、被告人の筆跡であることは疑いがない」とした。

 文字そのものが「似ている、似ていない」という問題もあるが、石川さんの当時の筆記能力で脅迫状が書けたのか。確定判決では、筆記能力の問題があることを認めつつも、(ウソの)自白を引用して「リボンという雑誌を見て書いた」と認定し、最終的には被告人の筆跡に疑いはないと断言し、「脅迫状の作成者が申し立て人であることに高度の蓋然性がある」としてしまった。蓋然性とは、可能性より強い表現である。

 「吉展ちゃん事件で脅迫状を書くことを思いついた」ということになっているが、吉展ちゃん事件では脅迫状ではなく、電話が使われた。検察の主張を鵜呑みにした判決である

▽刑事の誘導

 ウソの「自白」で、石川さんは、被害者の自転車に乗って脅迫状を届けに行った際に、被害者宅の近くの家で、「被害者の家はどこか」と聞いたことになっている。取り調べ録音テープでは、「聞いた家」はどこか、地図、説明を書かされている。刑事が「き、い、た、う」と一字づつ言い聞かしているが、実際の地図上には「聞いた家」が「きいだんち」と記されている。取調官が1字ずつ区切って、「ん」でなく「う」と書くよう促しているが、どうしても「うち」が「んち」になる。刑事は「まあ、いいや」と諦めているのが記録されている。「じてんしゃ」を書かかされる際は、石川さんは「また『や』がいる?」と聞き直し、「じでんしやや」と書いている。「山学校(やまがっこう)は、「っ」が書けず「がこを」と書いている。聞いた音を正しくひらがな(字)で表記するのは、学習・発達過程で可能となるが、学習機会を奪われた石川さんは拗音、促音の表記が習得できていない。録音テープからは、石川さんが取調官に従いながら、地図と説明を書いたこと、刑事の誘導するままに書かされたこと。にもかかわらず、そのとおりに文字や記述が追いついていないことがわかる——。

▽脅迫状は書けなかった

 読み書き能力とは、誰かに自分の意志や伝えたいことを、もれなく書けるかどうかということ。読み書き能力が低い人の文章は、「一つだけ」を伝えるか、もしくは「いろいろ書いているが、けっきょく何が言いたいのかわからない」という特徴がある。脅迫状は、「いつ、何時に、どこへ、いくら持ってこい。1分でも遅れてはいけない。そうであれば子どもは返す。そうでなかったら子どもは死ぬ。警察にも近所にも言ってはならない。指定した人でない者がきたら、子どもは殺す」と、伝えることをきちんと書ける文章能力がある人が書いたものだ。

 脅迫状には、当て字もある。漢字を知っている人が、わざと「ひらかな」で書くことはできるが、漢字を知らない人が「ひらかな」に漢字を当てることはしない。

 講演後、司会者が七堂弁護士に「石川さんが犯人ではないことをもっともよく知っているのは、もしかすると、取り調べた刑事だったかもしれませんね」と問いかけた。七堂弁護士からは「録音テープには『やっぱり書けねえな』と漏らす刑事の声も入っています」と答えた。

 森・魚住鑑定は、石川さん宅から発見された万年筆がねつ造された証拠であることを証明した下山鑑定とともに、確定判決を根底から覆すものである。(文責/『未来への協働』編集委員会)