インパール作戦。太平洋戦争中、日本軍がインド北東部の都市インパールの攻略をめざした 「史上最悪の作戦」である。投入された兵力は8万6千人。うち7万人以上が死傷した。▼1944年3月。敗色が濃くなる中、戦局の打開をかけた一大作戦だった。当初、作戦実施には慎重な声も多かった。30キロから60キロの重装備の兵士たちは川幅最大600メートルの大河や標高2千メートル級の山岳地帯をこえながら最大470キロを踏破しなければならなかったからだ。その声は無視された。短期決戦を想定した司令部は兵士たちに3週間分の食料しか持たさなかった。実際は4カ月以上にわたる長期戦だった▼作戦の失敗は明らかだったが、大本営は作戦を継続した。その間に戦死者はうなぎ上りに増え続けた。400キロにわたる撤退路には日本兵の死体が積み重なっていった。「白骨街道」だ。▼東京五輪がインパール作戦に例えられている。その教訓は直ちに中止することである。