歌を詠んでみました。「助けてと ガマの奥から聞こえるも この石重く ただ悶え神」(注)。

 3月2日、断食中のガマフヤー(洞窟に入って遺骨を探す)具志堅さんが、県庁の知事に向かって叫びました。「玉城デニーサン、助けてクミソーリヨ」(助けて下さいよ)。

 遺骨交じりの土砂が、辺野古新基地建設予定地の埋め立てに使われる事態に直面しているのです。「助けてクミソーリヨ」は遺骨の声であり、それを届けようとしました。そこには沖縄戦当時の背景があります。

 糸満市の山城壕(山城ガマ)では、米軍の砲撃で入口が崩落し、ガマに逃げていた家族5人が閉じ込められました。たまたまガマの外に水汲みに出ていた娘が驚いて近所の大人に助けを求めましたが、崩落した岩盤を前にしてどうしょうもなかった。「助けて」の声は2〜3日続いたが、しだいに聞こえなくなったと言います。このようなことは一例にすぎません。

 わが読谷村のヤーガーガマでも、天井の岩盤を砲撃で崩れ多くの住民が押しつぶされました。即死しなかったが下半身が岩の下敷きになった若い住民が「助けてくれ」と叫びましたが、岩盤が大きく取り除くことはできずガマにいた住民は、ただ手を合わせるだけでその場を去らざるを得なかった。下半身を押しつぶされた住民は痛さをこらえてか、ずーと歌を歌っていたという。

 その声を聞く住民は、ただただ「悶え神」にしかなれなかっただろう。

 今年になって、戦没者が最初に埋葬された「魂魄の塔」近くで熊野鉱山が辺野古に持って行く土砂を採掘しようと、摩文仁(まぶに)の丘の森林を伐採し始めました。ブルドーザーは32軍の通称石部隊の有川中将が自決したガマの上部まで来ていました。

 そこはガマから飛び出し、なお上に逃げようとした日本兵もいたし、住民も隠れていただろう。砲弾の雨が降った、その摩文仁の丘には、まだ十分に拾われていない遺骨があります。遺骨は、いまや石や土と溶け込んだものになっています。

 具志堅降松さんや宗教団体が断食をし工事の中止を訴え、知事は動きましたが、私権という壁にぶちあたり条件を付けての採掘を認めました。「遺骨を拾え」「採掘後は元通りに埋め土をするように」と。

 7月3日、熊野鉱山は動き出しました。採掘権のある場所までは公道が使えなくなったため、採掘現場にたどり着く道路を確保する必要がありました。そこで農地を道路に使い入口とするよう、糸満市の農業委員会に農地転用を申請しました。

 委員会としては許可の意見書を県に送るつもりが、異論がかなり出たようです。通常は市町村の農業委員会の意見書通り県が許可するのが段取りですが、そうはいかなくなりました。県が判断しなければならなくなりました。それが、7月末の段階です。

 政府は、主に戦場であった南部一帯からの土砂を辺野古、大浦湾の埋め立てに使う姿勢を崩していません。ガマフヤー具志堅さんたちの8月15日、東京での訴えはコロナで中止に。政府が断念しなければ、業者は採掘を急ぐでしょう。(注)水俣地方では、他人の苦しみを黙って見ていられない性分の人を、「悶え神さん」と呼ぶ。

(冨樫 守)