8月6日、「ヒロシマ平和の夕べ」(広島)の平和講演は田井中雅人さん(朝日新聞記者)。「核禁条約の発効と『黒い雨』判決は、ヒバクの過小評価の歴史と論理を転換する」と話した。要旨を紹介する。「黒い雨」原告の高東征二さん、「10年目の福島」伊東達也さんの訴え、継承する若い世代からの報告は次号にまとめる。(取材・文責/本紙編集委員会)

▽被爆、核被害を低く見積もる

 「黒い雨」訴訟など、なぜ国は被爆と被爆者の範囲に「線引き」をするのか。広島・長崎原爆投下後、米軍とマンハッタン計画の学者らによる合同調査委員会が広島、長崎に入り、放射線の被害、影響を調査、原爆被害調査委員会(ABCC)に引継いだ。生き残った被爆者に脱毛、紫斑、下痢、倦怠感、発熱などさまざまな急性症状が現れた。爆心に近いほど多く、2キロくらいから減少していく。ABCCは脱毛と紫斑の2症状だけを「被爆による急性症状」と定義づけた。3キロ、5キロ離れた多くの被爆者にも、下痢、出血、倦怠感などの症状が出ている。しかし、2症状がその後の基準づくりにされた。

 これらの問題について中川保雄さん(神戸大・科学史研究者、故人)の研究がある。「放射線被曝、防護の基準は、核・原子力を開発する側がヒバクを強制される側に、やむを得ない、がまん受忍するものと思わせる科学的装いを凝らした社会的基準である」(要旨、注:『放射線被曝の歴史』中川保雄著/2011年増補版、旧版1991年)。アメリカ、米軍は原爆の被害、残留放射能の影響をできるだけ低く見積もりたかった。

▽ヒバクを強制する側の基準

 戦後、国際放射線防護委員会(ICRP)が作られ、核開発や原水爆実験による放射線被曝を強制する側から、「平均的な人は耐えられる」「何キロ以内、何ミリシーベルト以下を基準」としてきた。

 東電福島第一原発事故の後、年間1ミリシーベルトだった一般の人の基準がICRPの勧告を受け20ミリとされた。行政が数字を出し、専門家とされる人が論文に、また行政が取り入れる。それが目安とされ、「帰還政策」になっていく。

 福島原発事故の際、放出された放射性物質は大気中、海中に拡散し太平洋全域、アメリカにも届いた。事故直後に、東北沖に展開した空母などから救援物資を運んだ米軍の「トモダチ作戦」では、多くの兵士がヒバクした。甲板作業の兵士はもちろん、多くの乗組員が強い外部、内部被曝を受け、何カ月もたって体調を崩した。少なくとも9人が亡くなっているが、ほとんど報道されない。米軍は14年に報告書を出し、「黒い雨」と同じ論法で「相当する線量ではない」と線引き、切り捨てている。

▽栄光の歴史ハンフォード

 福島ではアメリカのハンフォードをモデルにした「浜通り復興計画」が持ち上がっている。米西海岸のハンフォードには、長崎に投下した原爆のプルトニウムを作った原子炉があった。80年代まで使われ、長崎原発7千発分のプルトニウムを量産した。いまは博物館になっている。

 周辺は緑ゆたか、ブドウ畑が広がりワインも作られる。研究機関、原子力産業、廃炉ビジネスが集結し、観光客が集まる。一見、すごくきれいな町起こし。博物館のガイドが、きのこ雲をあしらったポロシャツを着ていたり、レストランにはアトミックエールというビール、高校のスポーツチームがボマーズ(爆撃隊)とか。

 「ここで作った原爆を長崎に投下し、戦争が終わってよかったね」。科学者も人々にも、栄光の歴史になっている。しかし、「黒い雨」「トモダチ作戦」のように、線引きの外に多くのヒバクシャがいる。

 プルトニウム生産による高濃度廃棄物もまったく処理できていない。タンクに入れ地中に埋めているが、漏れ出している。川、農地も汚染された。先住民族の人たちは野草やワシントン川のサーモン、川魚を食べて生活してきた。戦後生まれ、お父さんが技術者だった女性は、子どものころワシントン川で遊び泳いだ。10代後半から甲状腺ガンや流産を経験する。30年余り「病気だらけの人生」と、裁判に訴えてきた。

 裁判所は、「あなたたちは、広島・長崎の被爆者が受けた線量よりもはるかに少ない。因果関係は認められない」と退ける。政府や核産業は、「自然界にも放射能はある」「ガンは多発していない」という対抗研究を行ない、「あなたのガンはタバコのせいでは。家系由来かも」など自己責任論を持ち出してくる。

▽禁止条約不参加は保有への担保

 「核は毒じゃない。大げさなものではないよ」という歴史と状況に対抗できる内容を、核兵器禁止条約は持つ。「ヒバクシャと核被害者の受け入れ難い苦痛を心に留める」と前文に書いた。「核は悪、毒、非合法、非人道」と規定した。軍縮の枠を越えた人道、人権条約である。

 核兵器禁止条約は「核の語られ方」との、たたかい。第1条に、核兵器の開発、実験、製造、保有、配備などを禁止した。使用の威嚇、支援、奨励は、アメリカの核の傘に依拠し、開発を放棄していない日本に関係する条項でもある。条約は、それらを禁じている。第6条、被害者支援と環境改善は、広島・長崎・福島の被害者の救済、汚染された太平洋の環境改善という、まさに日本の役割となる。一方、化学兵器、毒ガスなどのように検証が、まだ規定されていない。日本は、今後開かれる締約国会議にオブザーバーでも参加するべき。

 アメリカの核被害者も、禁止条約の成立に熱心に活動した。ハンフォードもそうだが、じつはアメリカは「ヒバク大国」。マンハッタン計画の核施設は全米に広がり、1950年代はネバダ砂漠で核実験が繰り返された。アメリカ政府は、「核実験は危なくないよ。きのこ雲を見よう」とプロパガンダを展開した。

 多くの「風下のヒバクシャ」がいる。ユタ州セントジョージに住む女性は、お母さんのお腹にいたときにヒバク。西部劇のロケ地も汚染され、多くの映画関係者がガンで亡くなっている。「高齢化により被爆者、被曝者がいなくなっていく」と言われるが、なくならない。「風下の町」では子どもや孫、3世、4世に甲状腺ガンや流産が多発する。足もとのヒバクシャは、「自分たちよりも、次の世代に影響が大きい」と国際会議で証言している。

 日本は、何をしてきたか。17年、核兵器禁止条約の交渉会議をボイコットした。その前の、交渉会議に向けた会議でも、アメリカに言われるままに反対に投票した。

▽「核の論理」に終止符を打つ

 アメリカ、ABCCが、「爆心から2キロ以内の急性症状以外は被害を認めない」とするのは、なぜか。原爆・核兵器が、「無差別、残虐な兵器を禁止する」ハーグ条約違反とされては困る。「内部被曝とか、遺伝的影響はない」、単に「熱線や爆風で死ぬ」としないと戦争犯罪になってしまう。「2キロ以内にいた人にしか起きない被害」という基準、論理にしたかった。核兵器禁止条約は、それを崩してしまう条約である。

 日本は、「必要最小限であれば、(保有は)必ずしも憲法の禁止するところでない」(16年、閣議決定)としている。原発は、原爆の材料を作る装置。プルトニウムを保有し、ミサイルに転用するロケット技術もある。表向きは、もちろん平和目的。しかし、条約に参加すると核兵器を作れなくなる。「潜在能力は保持しておきたい」。

 アメリカのヒバクシャ、ハンフォード、トモダチ作戦も、黒い雨と同じように「広島・長崎ほど被爆していない」と切り捨てられ、「核は毒、核は悪い」と言わせないようにされてきた。「黒い雨」判決に、菅首相は「受け入れ難い部分もある」とコメントした。「科学的、合理的知見がない。個人差がある」とか、同じ理屈である。

 この論理、基準の押しつけが、「放射線ヒバクの歴史」だった。しかし、核兵器禁止条約、「黒い雨」判決の確定は、科学的とされてきたことが、じつはヒバクの過少評価、押しつける側の論理だと明らかにした。「核の語られ方」を変える、転換点になる。