「不妊治療」を本来の医療ではないと言ってしまえば「自分の子どもを産む」ことを切望し、高価で困難も伴う「不妊治療」をうけている人には冷酷で不当な意見と受け止められるだろう。でも「血のつながり」ではなく、「子育ては社会の仕事」であることがあたり前になる社会のあり方、人々の意識、文化が育まれていくことを、私は望みたい。

 子どもが3歳の頃、毎日新聞に「里親求めます」と、かわいらしい子どもの紹介が写真つきで連載(写真が似顔絵に変わったが今も継続)されていた。自分が産まなくても、親を求める子どもを育てることに不安を感じつつも、とても引かれ、毎回目が離せなかった。ただ里親の条件は「健全」な夫婦がそろっていること。私は籍を入れていなかったし、つれあいとは別れたいと思っていたし、不安定雇用。ハナから里親は無理だった。「家制度」がここにも立ちはだかるのかと怒りをおぼえた。

▽こうのとりのゆりかご

 それから30年近く、2007年に熊本慈恵病院が日本で初めて「こうのとりのゆりかご」を設置した。性暴力や無知ゆえに望まない妊娠を強いられ、堕ろせないままに臨月を向かえる、自分の身体で胎児の「いのち」を感じ産むことを決意するものの子育ての援助、経済的自立は得られず、社会は全く男性の責任を問わない。そんな状況で新生児と母親を守るために、親が匿名で特別養子縁組制度へとつなげていく施設だ。院長の発想と実践に胸打たれた。日本で初めての施設の設置を認可した行政も立派だった。多くの命を救い先進的役割を果たしたと思う。当時の院長は亡くなり施設は終了したと聞くが先進諸国ではこのような取り組みが活発に行われてきたようだ。養子縁組をして家庭で育つ子どもの数もはるかに多い。日本の児童養護施設の貧しさ、そこで育つ子どもたちの苦難と将来を思うとき、「子どもは社会の子」「社会で育つ」具体的実践の発展を強く願う。子ども食堂などその端緒は人々の手で開始されている。「コロナ禍」でとりくみは更に広がっている。それらの取り組みや、親を求める子と子育てを求める大人を結びつけていくことに惜しみなく公費を差し出すこと、それは「不妊治療の保険適用拡大よりはるかに有意義な公費の使い方であり、豊かで人間的な社会をうみ出すだろう。(つづく)