ウルグアイは、南米の、ブラジルとアルゼンチンにはさまれ、日本の半分ほどの国土に340万人が暮らす。ヨーロッパ系90%、先住民との混血8%、アフリカ系2%。一人当たりの国民総所得1万6350ドル(2014年、南米1位)。肥沃な大平原(パンパ)を生かし、農業と牧畜が盛んで、大豆・肉類・乳製品の輸出が経済を支える。
19世紀に入り、宗主国のスペイン、ポルトガル両国が弱体化。1811年に独立戦争を始め、1828年に独立。このとき、「東方人(ウルグアイ人)よ、祖国か墓場か!自由か栄光ある死か!」「自由を、自由を、東方人よ!それは祖国を救いし雄叫び」「暴君よ、戦慄せよ!」という国歌が生まれた。
▼大行進から武装闘争へ
保守二大政党のもとで、国際収支は赤字になり、インフレが猛威を振るい、通貨ペソも下落。暮らしの悪化に抗議する街頭デモやストライキが相次ぎ、社会不安が広がり、1960年代後半には経済危機が政治危機に転化。こういう中で、新しい別の道を求めてツパマロスなどが生まれ、武力闘争を通じて社会の根本的変革を求める運動が始まった。ツパマロスが働きかけたのは、内陸の農村部で厳しい労働に追われ、生活苦にあえいでいたサトウキビやテンサイの農園労働者だった。ペルード(砂糖労働者層)と呼ばれさげまれていた人びとで、都市部の共産党や社会党など伝統的左翼からもほとんど無視されていた。ツパマロスは農園労働者を労働者組合に組織し、1962年5月、首都モンテビデオまで600キロを労働者たちが妻子を連れて歩く、「ペルードたちの行進」を実現した。内陸部には大土地所有者の農地で事実上、放棄されている土地が多くあったので、土地を持たない彼らは不公正と窮状を広く国民にアピールし、働くための土地を求める行動にでた。
この大行進は2度実行されたが、結果は無残だった。都市住民の大きな注目はなく、支配層も黙殺した。平和的な手段では何の成果も得られなかったことが、その後、参加した労働者たちを武装闘争へと導き、やがてツパマロスという運動につながっていく流れとなったと言われている。
(脇田和也)