安倍政権の下で進んだ次元を画する対米従属によって「日本民族主義」という国家的アイデンティティも動揺している。「美しい日本」を唱える自民党やフジ産経グループは、無人島をめぐる中国や韓国の「主権侵害」を騒ぎたてる一方、日米地位協定の下で日本政府が米軍人・軍属の度重なる事故や犯罪に警察権も裁判権もまともに行使できない現実には一言も抗議もしない。「主権」意識など口先だけで、米国という「ご主人さま」のために吠える番犬意識が丸出しである。菅の東京五輪開会式における「不敬事件」は、はしなくも菅が皇室に何の権威も感じていないことを示した。「卒業旅行」と称する訪米を見ても、菅が米国以外に説明責任を感じていないことが明らかである。彼らの歯の浮くような日本賛美には出世や金儲けという下世話な動機が丸見えで、自分たちが米国の奴隷頭として甘い汁を吸う一方、日本国民を現実離れした妄想と自己満足の世界に浸らせておきたい意図が露骨である。

 皇室と安倍政権の直接的な摩擦・確執も度々報じられたことで、上皇アキヒトを「平和主義者」として持ち上げる意見も見られたが、これは皇室への過大評価である。もともと天皇ヒロヒトが戦犯として処刑されるのを免れたのは、平和憲法の下で日本は一切の軍事力行使を控えるという条件とバーターだった。東條英機らA級戦犯は上皇アキヒト15歳の誕生日に処刑されている。条件を違えれば皇族が絞首台に上っていたと強く自覚するアキヒトは、安倍・改憲路線の下で戦後処理をせずに日本軍を国際政治に登場させれば、天皇の戦争責任問題という戦後の原点回帰を内外にもたらすと危惧したのである。皇族が「平和のために祈る」のは、沖縄を米軍に売り渡したのとまったく同じ理由—皇室存続のためにすぎない。グローバリゼーション下の新たな対米従属を批判する際、天皇制に依拠したり、日本共産党のように「日本民族主義」の立場から反発したりするのではなく、「民衆の自己決定権を取り戻す」というスタンスから問題に接近すべきだと考える。

▽アフガン撤退の意味

 アフガン・イラク戦争は、もはや米国が世界支配の大義名分を失い、「支配したいから支配する」という独裁権力として君臨することを宣言するものだった。米軍のアフガン撤退は、米軍の軍事能力の限界を示し、米国がもはや世界支配のコストを背負い切れない現実を告白するものだ。「帝国の終わりの始まり」である。米国に依存してきた日本のエリート層は、自分たちも見捨てられる恐怖におののいている。

 アフガン情勢と軌を一にして菅政権が崩壊したのも偶然とは思えない。菅は単に自滅したのではない。大阪住民投票で「新自由主義」の尖兵すなわち「帝国の下僕」たる維新をわれわれはいったん押し返した。横浜市長選も日本民衆の底力を示している。「帝国」の統治が日本の民衆に貫徹していない、ということが菅辞任問題の核心にあるのではないだろうか。

 自民・公明を権力から引きずり下ろすためにたたかうことが必要だが、いざ野党連合による政権ができたとしても簡単にバラ色の未来が描けるわけではない。かつて民主党政権がそうだったように、その政策が米国の思惑を超えた瞬間、内外の「帝国」派からクーデターに匹敵する圧力がおそいかかってくるからである。そもそも「日米安保体制の堅持」を前提とする野党に過大な期待を抱くこともできないし、米国が日本政治に与えている裁量の余地もそれほど広くない。バイデン政権で「インド太平洋調整官」に着任したのは、民主党政権当時、小沢・鳩山外しに暗躍したと言われるジャパンハンドラーのカート・キャンベルである。

 辺野古新基地建設の中止など民衆の求める施策を、新政権が「帝国」の圧力に屈せず実行できるかどうかは、われわれ民衆運動の力量如何にかかっている。アメリカ国内政治の左右の振れも激しいため、日本の支配層も困惑し、右往左往している。内外の敵と味方を見極め、陣形を整え、必要な一歩一歩を準備していく時間が、われわれにはまだ残されている。

(おわり)

参考

Nick Turse, THE COMPLEX ? HOW THE MILITARY INVADES OUR EVERYDAY LIVES, 2006.

チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』『アメリカ帝国の悲劇』『帝国解体—アメリカ最後の選択』