▽日本女子大学

 日本女子大は日本で初めて私立の女子大学として、1901年創立された。祖母は寮に入るが、家庭のモデルのようにつくられており、母親役、姉妹役などの役割分担があった。

 まわりは旧貴族や金持ちの娘たちばかり。家政科だったので授業も全くおもしろくなかった。フランス料理の授業があり、お金もかかる。こんな料理を日本人の何人が食べられるだろうか?と思うとやる気がしなかった。

 祖母は早朝、新聞配達や牛乳配達をし、寮での役割も果たして、学費を工面した。祖母の長姉は、長女ゆえに跡取りのため自らの求める生き方をあきらめざるを得なかったが、その分、祖母を深く理解し、蚕をつむいで現金を稼ぎ学費を送ってくれた。

 それでも授業料がとどこおったが、知らない人が名も告げず払ってくれて卒業することができた。上京のとき持参した着物一着を何回もほどいて洗い、4年間をそれで通したという。

 親に背いた自責の念と、「人間いかに生きるべきか」という道を求める葛藤を抱えながら、祖母は先輩の平塚らいてうを訪れた。らいてうは明治時代に事実婚を求め、1911年、「原始女性は太陽であった」で始まることばで有名な雑誌『青鞜』を発行した。しかし祖母にとって平塚は住む世界が異なるブルジョアに過ぎず、失望する。

 同級生に倉田百三(『出家とその弟子』の著者。主人公の親鸞は西田天香を投影したと言われている)の妹がおり文通したりした。卒業後、道を求めて修行するために関西の伝統ある寺院の門を叩くが、女人禁制と追い払われた。

▽一燈園へ

 その後、祖母は倉田百三に招かれ、京都の一燈園を訪れる。そこは1904年(明37)、思想家・西田天香が自然にかなった生き方、無所有・奉仕・懺悔の心を信条として創始し、共感する人たちが集まって家庭のような共同体を形成していた。

 1921年(大正10)『懺悔の生活』が出版されると哲学者で京都学派を創始した西田幾太郎など文化人たちの注目を集める。倉田百三は西田教授の薫陶をうけた一燈園の一員であった。

 倉田の同級生で、祖母と同じような境遇と葛藤をかかえて大学を休学し、一燈園を訪れていた男性もいた。後に夫となる人だ。沖縄の阿波根昌鴻さんも訪れていたようだ。戦後米軍による伊江島の土地強奪に抗し非暴力の「乞食行進」をたたかいぬいた信念の根底には、一燈園での学びの影響があるような気がする。勝手な想像だろうか…。

▽禁酒運動へ

 西田天香の媒酌で結婚した祖母は、夫の就職に伴い大阪の八尾へ移る。長男、長女(私の母)をうみ、1921年(大正10)4人家族となった祖母は、夫が第5高等学校(現熊本大)へ赴任となったため熊本へ移る。母が8カ月のときだ。

 酒のために望まぬ結婚を強いられた祖母は、酒を憎み、キリスト教婦人矯風会へ入り、禁酒運動の熱心な活動家になっていく。当時、矯風会は色々な活動に取り組み、社会主義者を招いた講演会なども開いていたが、祖母の関心はそちらへは向かなかったようだ。質素・奉仕・けなげな生活ぶりはそのままだった。

(つづく)