
九州新幹線の新水俣駅から国道三号線を南下し、道路が水俣川と交差する所に水俣市の新庁舎が建てられています。この12月にも落成式の予定。2016年の熊本地震で旧庁舎の具合が悪くなったとか、建設費用39億円のうち80%以上が国の補助で賄われると言われます。
水俣市に住む障害者の人たちが、新庁舎建設にあわせ障害者用の駐車スペース(おもいやり駐車場)5台分の確保と、多目的トイレ5カか所のうち1か所を自動ドアーにして欲しいと市に対して要望したら、なんと! 水俣市はこの要望を断り、署名(3000筆)の受け取りすら拒否しています(21年11月18日現在)。さすが、チッソに応援してもらっている高岡利治市長の対応です。
水俣市役所のある交差点を左折すると、水俣で力のある人たちが住んでいた陣内という地域になり、チッソの管理者の社宅も立ち並んでいます。水俣はお菓子屋さんが多いそうです。なぜかというと、チッソの幹部に付け届けする習慣があったわけ、その辺りもチッソ城下町らしいところでしょう。
今回で4回目となる水俣、映画「MINAMATA」を観て��乙女塚�≠ノ行きたいと、相思社の方にお願いしており、車は水俣市内を抜けて鹿児島県境にある乙女塚へ。
乙女塚は、水俣病第一次訴訟原告の田上義春さんの農園に、一人芝居『海よ母よ子どもらよ』の全国勧進公演をおこなった砂田明さん、エミ子さん(94歳)ご夫婦が塚を建立されたそうです。「乙女塚」とされたのは、1977年、21歳で亡くなった胎児性水俣病患者の上村智子さんを追悼する意味がこめられているのです。
上村智子さんがご両親と水俣病裁判に出廷された第1回公判のとき、智子さんが声を上げたのですが、なんと退廷させられたそうです。判決公判の折に、裁判長が「上村智子に…」と読み上げたときも声を上げたそうです。
現在も乙女塚を守っておられる砂田エミ子さんにご挨拶をしてから、出月の溝口トヨ子さんのお墓に向いました。トヨ子さんのお墓は、ユージン・スミス夫妻が住んでいた家(今は空き地)の向い側、小高い丘の上にありました。その丘から不知火海が見えます。トヨ子さんも海岸へ行き、ビナなどの貝をとって食べていたのです。
溝口トヨ子さんは1953年12月に水俣病を5歳で発症し、水俣病認定患者になった最初の人です。8歳で亡くなってしまいました。小学校にすら通学できなかったトヨ子さんの悲しみと悔しさはどんなにか深かったでしょうか。彼女の残された想いを紹介します。
かあちゃん しょとで あそびたか しょとにでたか
かあちゃん しゃくらは まだ しゃかんとな はよ しゃければ よか
しゃくらん しゃくとがっこうに いくと (注)
チッソは、8歳の幼い女の子の夢を奪いました。ぼくは、この詩を読むたびに涙を禁じえません。溝口トヨ子さんは胎児性水俣病患者ではありませんが、多くの胎児性水俣病患者が、ぼくと同年代の人たちです。それを思うと、ぼくにできるのは、せめて「水俣病問題は終わっていない」と伝えることだと思っています。
(注)『きずな』(熊本県人権協)より引用 〔写真〕沖縄戦「鉄の暴風」に追いつめられ、「ひん死の子を抱く女」の像(金城実・作)。その後、生類全体に回生を祈る「海の母子像」とされた。