▽再び上京

 次男を産んだ後の1925年。成城学園の小原国芳という人の自学自習作業教育という教育方針に賛同し、長男を入学させるため2男1女を連れて上京する。

 藁ぶきの田舎家を借り、長男は4キロの道を通学。まずはランドセルが高価なのに驚き、学校のブルジョア的な雰囲気と田舎住まいとのギャップに違和感を覚えた。別居生活の無理もあり、また小原先生も学校の方針と合わず辞めることになり(後に玉川学園を創設)、半年で熊本へ戻る。

 1927年三男を産む。その後体調をくずすが、入退院と自宅での自然療養法、自給自活の生活により、10年かけて回復。しかし、次男が、祖母らの反対を押し切り陸軍幼年学校へ入り職業軍人となったため、心配で眠れぬ夜を過ごす。

▽瀕死の児をひきとって

 もうひとつの命を育てようと、乳児院からひん死の乳児をひきとり、四男として届ける。次女(私の母)は敗戦直前、結婚し夫とともに祖母宅へやって来た。

 私は3番目の子として生まれ、祖母の家で3歳までくらす。父が東京へ赴任したため1956年祖母宅を出たのだった。やさしく穏やかな祖父母の思い出は、いつまでも忘れられない。祖母とはずっと文通を続けた。私が小学生のときの誕生日プレゼントは、『太平洋ひとりぼっち』。初めて太平洋を小型ヨットで横断した堀江青年の本だ。志を持って自由に大きく生きて!というメッセージか。

 やがて祖父が実家(茨城)の跡取りとして不在が多くなるに従い、四男の祖母へのDVが激しくなる。「50にもなって子を産む親がどこにいる!」などののしられ…。

 祖母は初めて出自を話すが、収まらなかった。四男にすれば“家族の中で自分だけが違う”とずっとコンプレックスを感じ、ストレスをためこんでいたに違いない。

 当時、祖母は保護司をやっていた。1965年74歳のとき、突然家へ帰る道がわからなくなる。1969年茨城にて没。祖父に抱かれ病院より戻る。安らかな死顔だった。祖母は、いつまでも私にほほえみかけてくれている。そして女たちの、すべての人びとの自由と幸せをあの世で祈っていることだろう。

▽戦争をどう生きたか

 日本が近代天皇制を確立し、アジア・太平洋侵略と戦争へと突き進んでいく過程で、祖母は幼少期から青春期を過ごした。家制度と対決してきた彼女はあの戦争とどうむきあってきたのだろうか。

 残念ながら直接話をしたことはない。ただ、軍国少女にはならなかったことは確かだ。ブルジョワ的環境を嫌悪し、人間の生きる道を探り、一燈園の教えから学び、終生つつましく生きた。

 その祖母が何故労働運動や反戦運動に身をゆだねることにならなかったのか。私は、それをしばしば考えてきた。祖母のひとり娘である私の母は、いつも戦争責任を問う私や兄たちに対して��誰も戦争を好んでした人間はいない、あの時代はモノが言えなかったのだ�≠ニ祖母たちを擁護した。もちろんそれですまされる問題ではない。

▽とりまく人々

 祖母をとりまく人々の多くはインテリだった。彼女が世の中を変える希望を託した教育も、禁酒運動に熱意を燃やした嬌風会も、戦争の煮つまりとともに大翼賛会へと組織されていった。戦後一変して平和活動家へと変身した高良とみ等との親交もあった。

 インテリも労働者も抵抗の手段をつかみとることができず、戦争に加担していったのだ。一燈園で祖母と結ばれた祖父もしかりだ。西田哲学を学び倫理学の教官となった祖父は戦争中、学生たちと阿蘇を開墾していた。

▽戦後の思い

 一方で最愛の息子のひとりは軍国主義教育の中で職業軍人への道を歩む。その命を奪い返すべく,祖母は50才で瀕死の乳児をわが子として育て始めるが、その思いは報われる事なく病に倒れた。今や祖母の思いを知るよしはないが、戦争への反省と怒り、二度と戦争をくりかえしてはならないという強い思いは伝わる。

 これを私たちの自身のものとして貫き、生きぬきたいと思う。あの「雑司が谷の墓地」で一夜をすごした彼女の想いは、今もなり響いている。

(おわり)