
水俣の名物はチャンポンです。明治以降、天草地方から水俣に移り住んだ人たちにより、天草のチャンポンが水俣に定着したそうです。水俣の人はチャンポンにソースをかけて食べます。水俣市内に、何軒かお店があります。ぼくが相思社の方に連れて行ってもらったのは、八幡プールに近い丸島漁港にあるお店でした。ちなみにチッソ系の生活協同組合である水光社(関西でいえば、スーパーのライフのような雰囲気)のチャンポンとくらべると、ボリューム、コク、味とも断然おいしかったです。
水俣は、江戸時代までは水俣川を中心に町がつくられていたそうですが、明治になって人の往来が自由になったこともあり、後に水俣病が多く発生した月浦、湯堂、茂道に天草からやってきた漁師が集落を形成したといわれています。地元では「天草なぐれ」と呼ばれていました。あんまりいい言い方ではありませんね。
チッソは、水俣川と3集落(月浦・湯堂・茂道)のあった袋湾の間の平地に工場を建てたわけです。水力発電所から得た電力を利用し肥料などをつくる会社でした。前号にも書いたように、1931年に昭和天皇が訪れるくらい重要な会社だったのです。
▽昭和天皇のチッソ訪問
チッソは昭和天皇が会社を訪れた翌年の1932年から、水銀を垂れ流し始めています。岩波新書の『証言 水俣病』で、自主交渉派のリーダーだった川本輝夫さんが話していますが、32年から68年までの36年間に、何と!チッソは400トン〜500トンに及ぶ水銀を使用しました。どこから水銀を調達したのでしょうか。相思社の方によると、北海道北見市近くのイトムカ(アイヌ語で光輝く)鉱山からだそうです。資本のあくなき利潤追求の本性を表わしているでしょ。遠く北海道から水銀を運んできて、塩化ビニールをつくっていたのですから。イトムカ鉱山では現在、水銀の採掘は行われず水銀有機物のリサイクル工場があるそうです。
もう一つの重要物質であるカーバイド(石灰石)は、どこから調達してきたのでしょう。チッソの前身は「カーバイド協会」と言います。カーバイドの原料のコークスは三池炭鉱から、石灰は不知火海沿岸から調達しました。水俣の対岸、御所浦の海運を利用して水俣に運んだのです。どれほどのカーバイドを生産したかは残念ながら分かりません。
▽湾内に水銀が蓄積
チッソが水銀を流し続けた(1958年9月までは百間港、それ以降は水俣火口へ)不知火海は、九州と天草に囲まれた池のような内海です。とくに不知火海にある袋湾は、名前のとおり袋状の地形です。その地形ゆえに、水銀を含んだ排水も流れ着いて袋湾内に蓄積されたものと思われます。その袋湾に面した月浦、出月、坪谷、湯堂、茂道の人々に水俣病が多く発生したのでした。
とくに1953年前後には、多くの胎児性水俣病患者さんが産まれています。当初は、脳性マヒだの栄養失調、奇病、伝染病などと言われました。もろに、地域的な差別を受けたのです。水俣病患者を抱えた家族が商店に買い物に行くと、お金と品物をザルでやり取りしたり、電車やバスが利用できずに亡くなった子どもさんを負ぶって、線路沿いを歩いて家に帰った家族もありました。先ほど述べた「天草なぐれ」の人々を差別したのです。それは地域的な差別だけでなく、チッソ会社の在り方自体が差別構造に支えられていたのでした。(つづく)