自衛隊の活動が大きく変わってきています。岸田首相は総裁選から転換し「敵基地攻撃能力保有」を公言し、「9条に自衛隊明記」の4項目を含め安倍改憲からさらに一線を超えるような発言を繰り返しています。
昨年、6月に自衛隊は「台湾有事」を想定した実弾による日米合同演習(オリエントシールド)が、9月から10月には陸上自衛隊を総動員し、九州一帯で軍事物資の輸送訓練が行なわれました。さらに12月、伊丹駐屯地で「ヤマサクラ81」という日米合同指揮所演習を実施しました。恐ろしい事態、実際に戦争を想定していると言っても過言でないのでは。経済の行き詰まりを、戦争で乗り切ろうなどとさせてはなりません。
憲法を遵守し、司法の独立にもとづく裁判官もしっかりしてほしい。12月9日には、「日の丸・君が代」訴訟で大阪高裁判決が、地裁の不当な判決を覆し勝訴できました。これらの裁判はたくさんありましたが、ことごとく負けていました。しかし、原告や支援が諦めずにがんばれば勝てるという、久しぶりのうれしいニュースでした。戦前多くの教師が「国策」に抗しえず、多くの教え子に皇国精神を植え付け軍国少年に凝り固まった少国民にして軍隊へ、戦場へ送った責任は重大です。
「日の丸・君が代」で不起立し勝訴したことは、そんな過去の過ちを繰り返さない決意のもとに、たたかい続けた教師たちや支援する仲間の大きな成果です。
満蒙開拓青少年義勇軍に送られ、92歳になる藤後博巳さんが、憲法の大切さを語りました(12月4日、大阪市内)。日本が中国でどんなことをしたのか、教師にそそのかされ14歳で満州(中国東北部)へ渡り大変な思いを味わった。そのつらい体験を聞かせてもらいました。
戦争末期の1944年2月4日、下関から関釜連絡船「金剛丸」で渡り、28日に満州の昌図駅に着いた。満州に渡って1年半後にソ連軍第35軍がウスリー河と支流のスンガチャ河を渡河してきて激戦となった。訓練所にいた藤後さんたちに応援要請がきたが、その後の連絡は途絶え関東軍の前線離脱だったのだろう。
そして天皇裕仁の玉音放送が流れた。特別仕立ての列車で家族とともに帰国した部隊があったり、ソ連軍と銃火を交える部隊があったり、ソ連軍の略奪や婦女暴行もあり、恐怖のどん底に陥った。また、中国人の憎しみや憤りが爆発する場面に接し、極限の精神身体状態だった。
敗戦後は、開拓団の人々も訓練生たちも、軍隊から見捨てられ自力で生きていくしかなく、多くの犠牲者を生み出した。藤後さんは中国の人たちに助けられ、中華料理店で働き生活させてもらった。中国語も教えてもらった。八路軍の救援隊を手伝ってほしいと言われ、八路軍で共に生活し内戦が終わるまで従軍することになる。
藤後さんの話は続きます…。私たちは、何一つ解決していないのでは。私の伯父も無残な死に方をしましたが、話を聞きわかったこともありました。「憲法9条を大切に」—宿題をたくさんもらったと思います。がんばります。