チッソの創業者野口遵(したがう)は1873年旧加賀藩士の家に生まれ、東京帝大を卒業後、福島の発電所の技師長を務めました。そして、ドイツのシーメンス社から水力発電の機材を買って、1906年、鹿児島県の曾木に発電所を建設しました。

 1908年には、水俣の古賀川河口に日本窒素肥料株式会社水俣工場を創業しました。曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイド生産をするのです。そのカーバイドから石灰窒素肥料をつくりました。

 その後、カーバイドから水銀触媒法を用いてアセトアルデヒドの製造するようになります。野口遵は、後に水俣市長になる橋本彦七にアセトアルデヒド、酢酸製造を水俣工場でさせていきます。

 

▽メチル水銀症

 かくして1932年5月7日から、チッソは水俣湾に無機水銀と有機水銀を流しはじめました。水銀触媒法によってアセトアルデヒドをつくると、有毒な有機水銀(メチル水銀)が出来てしまう事は、野口遵も分かっていたはずです。

 世界で最初にメチル水銀中毒になったのは、ロンドンでメチル水銀の研究をしていたカール・ウルリッヒという人です。1865年2月4日に、今でいう劇症型メチル水銀症で亡くなりました。この事件から60年以上が経ち、欧州の科学者の間ではメチル水銀中毒症の恐ろしさは常識でした。メチル水銀症は恐ろしいという事を当然野口も橋本も知っていたのです。

 野口の労働者観は「牛馬のようにこきつかえ!」であり、橋本が労働者を雇用する際に質問したのは「工場で働いて(爆発で)死んでもよいか?」でした。実際、戦中戦後のチッソの工場では、爆発や有毒ガス漏れなどの労働災害を引き起こしていたのです。このように人間を人間とも思わない姿勢は、当然水俣に住む漁師や住民に対する仕打ちに繋がります。

 水俣病の公式確認以前にメチル水銀中毒症でなくなったと思われる人は、月浦の江上静雄(27)、1941年1月7日。湯堂の中山邦彦(21)、47年12月29日。いずれも劇症型でした。公式確認日とされる1956年5月1日よりずっと前です。

 

▽厚生省の思惑

 窒素は戦前、肥料、爆薬、塩ビのメーカーとして大きな位置を占めていました。朝鮮では、電気化学コンビナートを建設しました。戦後は日本の復興と高度経済成長を支える会社として存在したのです。それゆえに、繊維と塩ビ原料のアセトアルデヒド増産を続けたのでした。

 厚生省が、水俣病の原因はチッソの垂れ流す有機水銀を含んだ排水であるとした1968年というのは、電気化学によるアセトアルデヒド生産が終了したからであり、患者・被害者の救済を優先するよりも、チッソがアセチレン・カーバイドを使い切るのを待っていたと思われます。

チッソは現在JNCとなり、液晶の国内有数の企業になりました。しかし、水俣病問題は終わっていません。現在まで26027名が認定申請していますが、認定されたのは2286名にすぎません。毎年、認定却下が続いています。今なお、水俣病の認定を求めている人は334名です。8件の裁判も継続中です。チッソ、国、県、水俣市は水俣病患者が死に絶えるのを待っているだけなのでしょうか。(つづく)