
與那覇潤という若い歴史学者の『歴史なき時代に』(朝日新書)に、「歴史学が社会で共に暮らす他者との共感の基盤を養う使命を忘却している」という提起に魅かれて読んだ。
著者は、時間とは単に循環するものでなく、過去から現在を経て未来へ続いていく線形の軸をなすものとし、現在から過去への問いかけがあって初めて歴史は始まると述べる。現在の悩みがどこから来るかと問うた時、過去からの系譜を見出し、その延長線上に同時代を位置付けて、他の人々と共に共有可能な物語を作っていく作業が歴史であると説く。
メルケルのスピーチが人々の心をつかんだのは、歴史が持っている「共感を生み出す力」を最大限に引き出したことにある。命を救いたくてロックダウンをするけれども、それと表裏一体の形でどれだけの「権利の制限」「文化の破壊」という罪深いことをしているのか。それを「この人は分かっている人だな」と。これが「歴史の共有」であると言う。
そもそも歴史学は、人間というものの「厚み」を描き出すのが仕事だった。ある国にとっては栄光の奇跡が、他国からは屈辱の連続だったかも知れない。それを全部ひっくるめたものが、私たちの歩んできた道のりではないか。そういう苦しみを伴った経験の共有を通じて共存の基盤を作り上げていくことが歴史研究であり、歴史を語る意義だった。
ところが、今の社会の記憶は「10年もたない」。これは私たちが歴史というものを伝えていく能力、過去を踏まえて生きていくあり方を失っているのではないか。
従軍慰安婦の問題では、深刻な指摘をする。
「率直に言って、立場を問わず、もう解決すると思っている人は誰もいません」「どうせ理解し合えないんだから、互いに無視しよう」というのが、今や日本人の平均的な感覚だ。彼は、歴史で解決しようとすると、どうしても史実を特定していく方向に純化していき、歴史が共感の基盤をつくり出すよりも、それを破壊する道具になってしまうと言う。彼が言いたいのは「事実の特定以前に『自分が共感できるものの幅』を広げておかなければ、そもそも話を聞く行為自体ができない」というところにあるのだと思う。必要なのは、共感を生み出す力を取り戻すことなのだ。(村)