

今回で4度目の水俣でしたが、ものすごく楽しみなことがありました。新日本窒素労働組合の委員長をされた山下善寛さん(81)にお会いできることでした。水俣の居酒屋で約束した山下さんは、小柄な方でとても温和な方でした。1978年から89年まで、チッソの新日本窒素労働組合の委員長をされていました。
山下さんと水俣の芋焼酎を飲みつつお話ししていくうちに、国鉄の分割民営化の際にとった国鉄当局のやり方は、チッソの労務政策と同じだという話になりました。
チッソが合理化の際にやったのは、南九州開発という別会社をつくり労働者をそこに追いやることでした。その会社では、意味のある仕事させないのです。分割民営化の時に国鉄がつくった、人材活用センターの先取りです。チッソは1963年に第二組合ができたのですが、第二組合員も含めて強制配転させています。この辺りも、国鉄といっしょです。
もう一つ、チッソが新日本窒素労組の働組合員にした仕打ちを紹介します。チッソは水俣から離れた曾木というところに水力発電所をつくったのが最初です。その電力を利用して化学製品をつくっていきます。山奥の、売店も無いような発電所に新日本窒素労組の組合員を配転させます。生活用品のなどを積んだ移動販売車が来ると第二組合の主婦たちが車を取り囲み、新日本窒素労働組合の人たちが購買するのを妨害したというのですから驚きです。
、ハッタと思ったのですが、山下さんに新日本窒素労働組合の「安定賃金闘争や恥宣言」について聞かなかったことです。われながら、うかつでした。非常に惜しいことです。
新日本窒素労働組合は、大学卒業者を中心にして1946年1月に結成されました。51年、総評傘下の合化労連(太田薫・議長)に加盟しました。53年には、社員の身分制撤廃のストライキを打ちます。
そして62年、日本労働運動史上特筆すべき安定賃金闘争をたたかいます。チッソは組合の争議権を奪い、組合つぶしを狙って、4年間の賃金を前もって決める「安定賃金」を提案したのです。組合は、「安賃は毒まんじゅう」として断固反対の闘争を繰り広げました。およそ180日間の全面ストを含む大争議に発展します。
この大闘争の過程で46年に組合を立ち上げた人たちを中心に、第二組合が結成されます。第二組合は会社の意を受け動きますから、第一組合である新日本窒素労働組合と激しく対立し、地域を分断し、家族の分断が起きます。チッソで働いている人の中にも水俣病患者を抱えた人がありました。多くは第一組合で頑張りました。一度、船で水俣湾を案内してもらった人(未認定、現在裁判中)のお父さんも、第一組合員でした。
「恥宣言」というのは、新日本窒素労働組合が1968年8月30日、第31回定期大会で決定した「何もしてこなかったことを恥じとし、水俣病とたたかう!」という決議です。公害を出した企業の組合として、画期的な宣言です。これ以降、患者さんへの支援、裁判闘争への協力など、めざましい運動を進めていきました。(おわり)