
さる1月10日、およそ100名の参加で出版記念の集いが開かれた(大阪市内)。出版されたのは『語り継ぐ1969 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(20年11月、社会評論社)。集いは、コロナ感染拡大のため1年開催が遅れた。世話人のひとり、内藤秀之さんが開会のあいさつ。67年10・8羽田闘争で斃れた山崎博昭さんのお兄さん、山崎建夫さんが連帯のあいさつ。そしてシンポジウム「半世紀を振り返って、ポストコロナの時代にどう立ち向かうのか」が行なわれた。
白川真澄さんが司会、パネラーは武藤一羊さん(ピープルズプラン)、山口幸夫さん(元ただの市民が戦車を止める会)ら懐かしい人たちが、この50年間について発言した。武藤さんは、「この書物は、ぼくにとって重い。糟谷の思想を示す言葉、行動参加、逮捕後の姿勢、それらが当時の多くの同志、仲間たちにこれほど深く受け止められ、実践と生活の中にいかされてきたか。自分の過去50年の生き方を顧みる座標軸となる」。
山口幸夫さんは「敗戦から戦後復興へ日本が採った道を振り返りつつ、現代が直面している危機の原因を探る。私たちは、文明の転換を迫られているのではないか」。
私は、昨秋亡くなった11・13闘争(注)被告団のひとりのことを思い出していた。彼は神戸の被差別部落に生まれ京都で学び、いくつかの闘いに参加し11・13闘争で逮捕され、起訴された。その後、自分の生まれ育ったムラへ戻り、ごみ収集の仕事をしながら部落解放の闘いを終生つづけた。がんを発病し、亡くなる直前の言葉は「とうとう、生きているうちに部落差別を無くすことはできなかったなぁ」だった。
人類が抱えている問題は、1人の個人が抱えている問題と常に等価だと感じられた集まりであった。(石塚健)(注/69年11月、大阪扇町で開かれた「佐藤(当時の首相)訪米阻止集会」)
【糟谷孝幸】48年生まれ。69年11・13闘争で重傷を負い、翌14日死亡。