
連日メディアでは、ウクライナに対するロシア軍による「侵攻の可能性」が報じられ、ロシアのプーチンがいかに恐ろしい独裁者かという印象操作がおこなわれている。しかし、ウクライナをめぐってどのような国際政治が進行しているのかを正確に示すものは少ない。国際報道の内容には、まちがいなくひとつのイデオロギーと特殊な価値判断が組み込まれている。それは地政学に基づく戦略思想である。
19世紀以来の国際政治はイギリスの世界覇権を軸に動いてきた。いち早く産業革命に成功したイギリスは、産業資本による資本蓄積を実現し、そこで蓄えられた経済力を背景に強大な軍事力(とりわけ海軍力)を形成し、世界中に植民地を拡大した。イギリスは自国の政治力・軍事力・経済力の〝強みと弱み〟を自覚しながら、世界の覇権国としての地位を守ってきた。
19世紀の半ば以降の歴史的な事件のほとんどにおいてイギリスは陰に陽に関与してきた。1840年のアヘン戦争、1854年クリミア戦争、1868年の明治維新、 1861~65年アメリカ南北戦争、1869年スエズ運河開通、1877年露土戦争などはイギリスの覇権戦略下で発生したと言って過言ではない。
こうした出来事は偶発的に起こったものもあったが、一連の世界的事件の中でイギリスは世界の覇権国としての戦略的思想を生み出していったのである。そのひとつが、ハルフォード・マッキンダーの「ハートランド」理論である。マッキンダーは、この「ハートランド」理論によって地政学の父と呼ばれている。
「ハートランド」理論
マッキンダーの理論は、地球上の地理的条件を基礎としてイギリスの覇権国としての戦略を考えていくものである。地理学と政治学を統合した思考としての地政学である。
「ハートランド」理論の重要な核心は、「制圧することのできない地域が地球上に存在する」ということを認識することにある。それがユーラシア大陸の中心部にある「ハートランド」と呼ばれる場所だ(下図参照)。
「ハートランド」とは、北極海に北を閉ざされ、シベリアや東部ヨーロッパの擁する広大な領域であり、ナポレオンの遠征やナチスドイツの侵攻にも耐えたロシア人とロシアの大地のことである。
この領域は外部から制圧することも、支配することもできない地域であり、「歴史的に不敗の地域である」という理論的前提に立った時、イギリスの戦略は次のようになる。それは、「ハートランド」についての最善の策はその地域を包囲し、孤立させることである」というものだ。これがイギリスの(後にはアメリカの)、第一の政治的・軍事的目標になってきたのだ。
「不敗の地=ハートランド=ロシア」をあらかじめ敵国として設定し、それによって生み出された緊張関係の下で外交政策を展開する。この「ハートランド=ロシア」の周縁国で政治的軍事的緊張をたえずつくりだし、それを利用しながら、自国の覇権的利害を維持する戦略である。
19世紀のロシアは、ツァーリ(ロシア皇帝)が支配する旧態依然たる農業国でしかなかった。あえて言えば、その国力は世界の覇権国イギリスが恐れるには足らないものであり、無視することもできただろう。その力関係は現在も変わっていない。しかし地理的条件から地球上に不敗の地が存在することは、イギリス(およびアメリカ)にとっては、絶対に無視することのできない重大な政治問題だった。だからこそ150年前から世界史は、ロシアとの対抗の中で動いてきたのだ。
19世紀後半から、鉄道が発達し、物流や軍事の考え方が抜本的に変化したことも、この理論にさらに重要な要素を加えていた。「絶対不敗の地=ハートランド=ロシア」に、西隣の新興の工業国=ドイツが結びついた時、遅れたロシアは、それまでとは全く違った影響力を世界に対して及ぼすことになる、という問題だ。イギリスの戦略的地政学者であるマッキンダーはそのことを特別に恐れた。ここからイギリス及びアメリカの覇権戦略=外交戦略の要諦が決められたと言っても過言ではない。
マッキンダーが理論化した、地政学的世界観においては、ドイツとロシアが結びつくことは、イギリスの歴史的な敗北に直結する。イギリスの政治的・経済的な利害にとって、重大な挑戦をうけることになるのだ。それは20世紀後半にイギリスから覇権を引き継いだアメリカにとっても同様であった。
ランドパワーと
シーパワー
イギリスとアメリカはハートランドがもっているランドパワーに、シーパワーという戦略で対抗した。しかしドイツは、「ハートランド=ロシア」と近接し、協力し合うことが可能な地政学的な位置にあった。それを阻止するために、イギリスとアメリカは、ハートランドの周辺国をたえず対抗と緊張の中に置き続けるという戦略をとってきたのだ。
ヨーロッパ政治においては、ロシアとドイツは絶えず対決を余儀なくされた。第一次世界大戦しかり、第二次世界大戦もしかりである。19世紀のオスマントルコとロシアは、隠然たるイギリスの影響下で互いに戦争を続けていた。中東におけるイギリスの三枚舌外交とは、ロシアの周縁国家群を自らの勢力下に置きながら、同時にその地域で緊張を継続させる戦略だった。19世紀の後半のイギリスの東アジア戦略は、中国における利権を押さえながら、日本を「番犬」として使うことによって、ロシアの東アジアへの影響を防ぐことにあった。 (つづく)
青と黄の旗が引き裂かれる。どす黒く燃え上がる市街。そこまでやるか、原発を砲撃したロシア軍。プーチンの命令一声で、チエルブイリの悪夢がよみがえる。
ロシアの戦車の前に、立ちふさがるウクライナの人々。爆風で吹き飛ぶ住宅。シェルターで産まれる赤ちゃん。いつかみた光景だが、これは侵略戦争だ。核攻撃もちらつかせるプーチンのっぺりした顔。ソ連邦崩壊で分かれた兄弟の国だって。一方的に軍事進行でねじ伏せることはできない。茶の間に戦争が入ってくる。一人ひとりの声を上げていこう。未来への協働の紙面が試されている。地政学を悠長にやっている場合ではないのではないか。
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