
このところ、沖縄のコロナ感染者数が千人をはるかに超える日が続いています。復帰50年を意識しての県民大会が4月30日に予定されていましたが延期となり、連動して辺野古への大結集が自粛モードになりそうです。
県民大会のテーマは「屋良建議書は実現されたのか」です。「屋良建議書」とは、琉球政府主席であった屋良朝苗が、本土復帰に際し、県民の要望や将来あるべき沖縄の姿などをまとめたものです。これを国会の審議にかけてもらおうと、1971年11月17日、東京に向かいました。
屋良主席が羽田空港に降り立ったちょうどその時間、今も問題の残る返還協定案を自民党が衆議院特別委員会で抜き打ち的に強行採決しました。屋良さんは無念の想いで建議書を佐藤総理に渡しましたが、「陳情書」としての取り扱いになりました。
その後、「屋良建議書」は実現されたのでしょうか? 答えは「いいえ」です。
有機フッ素化合物の混入した飲み水、爆音、軍用機からの落下物、危険な訓練、犯罪など毎日のように、沖縄は基地被害に悩まされています。
尖閣列島を争いの具にし、台湾有事をあおり、さらには辺野古新基地建設、島々への自衛隊基地建設、ミサイル持ち込みなど、平穏で平和な沖縄像とかけ離れたものにされています。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和で沖縄を米軍に差し出し、さっさと「独立」した日本本土政府の責任感はどのようなものでしょうか。2013年に、4月28日は「国家主権を回復した日」とし、安倍総理は万歳までして祝っているのです。
復帰50年の5月15日は祝い日としないで欲しい。政府は、せめて軍事基地一つぐらいは解放し、謝る日にしてほしいものだ。私たちは、軍事基地の「即時無条件全面返還」を求めたのですぞ。
1972年の日米返還協定の調印式に欠席した屋良主席は、日記にこう書きました。
「涙がにじんだ事は事実。遂に来るべき日が来た。しかし、その内容については非常に不安。憂うべき事、不満の事がある。(中略)平和憲法とは関係のない米国の戦略的強烈な基地の中で生活を強いられる事はたしかに理不尽であり、憤懣(ふんまん)にたえない」(『一条の光 屋良朝苗日記』)。
(富樫 守)