
第1回では、グローバル化の特徴を(1)労働のグローバルな取捨選択、(2)金融の高利化、(3)グローバル覇権の拡大の3点で見た。今回は、グローバル化の本質的な意味だ。事態が根本的な次元なので、その把握も原理的にならざるを得ない。ごく簡潔に言えば、「資本の私的性格が、社会的性格から乖離して暴走している」。どういうことか?
資本とは・国家とは
資本とは、人間労働の客体的諸条件(社会的自然、生産諸手段、社会的協働性、生産諸能力など)が、人間にたいして対立的に自立化し主体化したもの。その資本が、価値増殖という「私的動機」で運動し、その運動(市場における交換と競争)を通して「労働の社会的連関」を媒介し、間接的に社会的な便益をも実現する。あくまでも「私的」だが、媒介的に「社会的」でもある。だから、資本(主義社会)とは、「私的性格と社会的性格の矛盾的統一」といえる。
故に、資本主義社会は、絶えず「私的」と「社会的」の矛盾に苛まれ、その解決を迫られている。そこで国家という「公共的」総括が問題になる。資本の私的性格が露呈し、それにたいして絶えず社会的なもの(工場法に始まり、究極的には社会主義)が提起されてくるが、しかし、それにたいして、国家は、あくまでも社会的なものを排除しつつ「公共」の内に回収・変換し、もって擬制的に統合する。しかし、矛盾は絶えず亢(こう)進していくので、国家は、さらに公共的な諸制度を拡張することで対応せざるを得ない。
近代の枠組みの破綻
ところが、前回見たように、グローバル化した資本の運動は、もはや、媒介的にも「社会的」ではなく、社会と自然にたいする破壊者でしかない。まさに、資本の私的性格が、その社会的性格から乖離し暴走している。そして、国家の制御を外れて無政府的に暴走する資本の運動を、もはや国家は公共的に総括できない。アメリカといえども、国家はあくまでも「国民」という枠組みのものであって、「グローバルな公共性」にはなり得ない。公共的総括としての国家の機能が不全に陥っている。かと言って、「世界政府」や「帝国(超国家的主権)」が現れ出る気配は皆目ない。
事態は「矛盾的統一としての社会」の破綻、つまり、「資本による媒介と国家による総括」という近代の枠組みの破綻を私たちは経験している。
危機と
アソシエーション
今や世界は20世紀の経験を超える危機に逢着している。
一つは、グローバル化と、国民国家の機能不全にたいして、ナショナリズム(国家の危機に際して、国家に固執し、国家の内的な統合強化と対外的な覇権拡大を追求する政治)や、ポピュリズム(既成政党や左翼や労働組合に代表されなかった普通の人びとの不満・不安が、権威主義的な人格によって代表される政治)の台頭である。
二つは、グローバル化とグローバル覇権拡大にたいする逆流・対抗である。米軍アフガン撤退、中国の覇権的対抗、そしてロシアによるウクライナ侵略戦争。この戦争は、資本のグローバル化とアメリカのグローバル覇権拡大(とりわけNATO拡大)と、その攻勢によって国家の危機を深めるロシアの覇権的対抗との衝突であり、「グローバル化の破綻の大戦争への転化」である。そのために破壊と虐殺が強行されている。
さらに三つは、グローバル化による地球環境破壊、新型感染症拡大である。
だが、四つは、資本のグローバル化によって労働のグローバルな連関が(対立的にではあるが)形成され、他方で、資本の私的動機に媒介されていた社会的生産から、その私的性格が引き剥がされていく。つまり、資本の自立化・主体化によって人間の意識の外に追いやられていた「労働の社会的連関」が、アソシエーション(自主的に結合した民衆が協働して、政治・経済・社会を組織する自治的な社会システム。国家にも市場にも拠らない、本来の社会主義)として意識化され・実践される局面でもある。
グローバル化の破綻の戦争への転化にたいして、「軍事同盟」や「核共有」で対応するのは悪無限でしかない。国家という枠組みへの固執こそが戦争の元凶だ。アソシエーションを土台に、機能不全の国家を超えてグローバルな民衆の大連合を形成し、その下で、グローバルな公共性を制御することだ。
以上、グローバル化について見てきたが、現在は、このような歴史的な大局にある。その中で、まさに大阪問題・維新問題が焦点になっている。次回、その問題に入る。
(つづく)