沖縄戦、その後を写真に記録してきた大城弘明さんの「沖縄写真展」が開かれた(3月下旬、神戸市内)。展示された写真はガマ(自然洞窟)、壕に残る遺骨やその跡、一家全滅の家跡、生き延びた家族…。写真展でのトークをもとに、「イクサ場の記憶」を大城さんに話してもらった。(取材/竹田雅博)

戦火に蹂躙された沖縄
 
 77年前の3月下旬、沖縄は海に大艦隊、空は戦闘機の大群に埋め尽くされた。米軍は3月26日に慶良間諸島に、4月1日には本島読谷、北谷に上陸した。以降、日本軍の組織的戦闘が終わる6月下旬まで、沖縄は戦火に蹂躙された。今年は沖縄戦から77年。日本に施政権が返還された「日本復帰」から50年となる。
 
チムグリサヌヤー
 
 私は1950年3月に、いまの糸満市、旧三和村に生まれた。子どものころ、あちこちに崩れた石垣に囲まれた空き地、屋敷跡があり、石を積んだ小さな祠(ほこら)や香炉(こうろ)が置かれていた。近所のおばさんに「あの家は、なに」と尋ねると、「アマー イクサウティ チネードーリル ソーンドー。 チムグリサヌヤー(戦争で一家全滅したんだよ かわいそうで 心が痛む)」と言っていた。
 三和村は沖縄戦の終焉の地。あちこちの集落に空き家跡があった。そんな体験から、学生のころから沖縄戦をテーマに写真を撮ってきた。
 復帰前の71年ころから、三和村で遺骨や一家全滅の家跡などの撮影を始めた。撮影のためガマに入った。両親の家族や多くの住民が避難したンタヒーアブ(ガマ)には、十数体の遺骨があった。
 
屋敷跡の小さな祠
 
 激戦地だった糸満市には、一家全滅の家が多くある。市の調査では約6300世帯のうち1702世帯で家族半数が戦没、一家全滅は440世帯を数える。旧三和村は半数以上が亡くなった家が785世帯、全滅は250世帯である。
 14年、戦後70年を前にまとめてみようと、250世帯の場所を地図に入れ、全部訪ねてみた。毎月、お茶とお線香を供えている人に会った。跡継ぎがある家族や、縁ある人がいる所には祠と香炉、花瓶などが置かれている。小さな祠がつくられている屋敷跡は、50カ所以上あった。畑に整地された所や、弔う人がいなくなり土地を放棄せざるを得ない場所もある。
 鉄の暴風と呼ばれた、あのイクサが根こそぎ奪った。一家全滅の屋敷跡は、静かに、だが激しい思いをいまに伝える。
 
父親は長崎で被爆
 
 私の家族の話。家の長男である父親(当時15歳)は、軍国少年だった。母親に内緒で兵隊に志願し合格、1945年2月に長崎県相浦海兵団に入団した。少しだけ訓練をうけ6月から長崎の三菱軍需工場に行かされた。8月9日、爆心地から1・3キロの工場は壊滅。父は負傷したが、横浜にいた祖父と合流し翌年に沖縄に戻ることができた。
 三和村福地には、父の母親のトミ、次男、長女、三男らがいた。米軍が上陸し砲撃、空襲が激しくなると、昼は親族らとンターヒアブに避難し、母親は夜が明けないうちに家でムジメー(麦飯)や芋、汁を作りガマに運んだ。途中、砲撃があると畑の溝などに隠れる。6月中旬に、日本兵がきて「軍が使う。出て行け」と追い出された。
 
喜屋武(きゃん)岬へ逃げた
 
 トミは布団や道具を抱え9歳の長女が4歳の三男を背負い、南の海岸へ逃げた。昼は小さな壕や墓に隠れ夜に歩き喜屋武岬近くまで行くが、暗くて崖を降りられない。壕も大勢の人で入れない。近くで砲弾が爆発、いっしょにいた母親の実家の弟が太股を負傷し、戦後の9月に亡くなった。
 トミがある日、子どもたちのために食べ物を捜し持ち帰った。日本兵4人に見つかり尋問された。トミはウチナーグチしか話せない。拳銃や日本刀を突きつけられ、「お前はスパイだろう」と軍靴で蹴られ食料を奪われた。暴行を受けた後、トミは体調を崩した。
 
収容所で亡くなる人
 
 米軍資料によると喜屋武岬一帯で6月19日頃から、かなりの数の住民と日本兵が捕虜になっている。そのとき、同じ集落の20代の娘さんが日本兵に後ろから撃たれた。米兵を狙ったのか、故意だったのかわからない。捕虜はトラックで豊見城村、宜野湾村、宜野座村の収容所へ移動させられた。トミは日に日に体調が悪化し10月に亡くなった。病気も蔓延、栄養失調で亡くなる人も少なくなかった。
沖縄戦で遺骨を特定できるのは珍しい。後に遺骨を捜しに行くがわからないことが多い。古知屋の収用所では名前、出身、年齢などを克明にノートに記録した人がおり、また埋葬場所に番号を付けた墓標も立てられていた。そのため、数年後に祖母の遺骨を収骨することができた。   (つづく)