
今回は、維新を支持しているのは誰なのか・どういう意識なのかという問題について考えたい。というのは、私たち左翼が従来、期待し想定してきた「労働者階級人民」という捉え方には当てはまらない人びとが、政治を動かし始めているからだ。左翼の側のステレオタイプな見方を反省的に改める必要があるということだ。
一人負けの日本
沈下する大阪
まず、日本経済および大阪経済がひどく悪いという事実を認識する必要がある。日本経済はいわば一人負け状態。世界が停滞基調だから日本も—ではない。日本経済の停滞はOECD諸国の中でも際立っている。欧米諸国では、この20年間で名目GDP(国内総生産)が2倍程度になっているのに、日本だけは横ばい。原因は、経済のグローバル化への一方的な追随と、「構造改革」という追い打ちだ。
さらに、停滞する日本の中でも陥没しているのが大阪だ(図)。グローバル化によって東京一極集中が進んだ上に、関空などの大規模事業がことごとく失敗した結果、大阪が、「不景気の日本の中でも最悪」になってしまった。まさにラストベルト。第1回で見たエレファント・カーブを地で行くのが大阪だ。
ここに、維新現象が大阪で生じる経済的根拠がある。
経済的な不満・不安
沈下する大阪で暮らす多くの人びとが、経済的不安・不満を抱いている。たしかに、多くはまだ生死にかかわるような危機的な貧困ではないかも知れない。しかし、「以前より暮らし向きは悪くなっている」「景気がちっともよくならない」「将来がとても不安だ」と大多数の人びとが感じている。
しかも、この人びとは、元来、声高に何かを要求したり、運動や政治に参加したりすることから縁遠かった層だ。まして、左翼運動・労働組合運動などと出会うことはなかった。そういう人びとを、サイレント・マジョリティ(声なき多数派)と呼ぼう。要するに、ごく普通の労働者・事業者・住民だ。
ポピュリズム
この間の顕著な変化は、この人びとが政治の場面に登場してきたことだ。ポピュリズムである。それは、「既成政党や左翼や労働組合に代表されなかった普通の人びとの不満・不安が、権威主義的な人格によって代表される政治」と規定できる。
注意したい点の第一は、維新という政党の極反動的な性格と、それに「代表された」サイレント・マジョリティの心情や声が、単純に同一ではないということだ。両者を区別してとらえる必要がある。
第二に、トランプ現象というように、ポピュリズムを「現象」と捉える点だ。それは、トランプや橋下の人格や言説にポピュリズムの本質があるのではなく、それを押し上げているサイレント・マジョリティの心情や声にこそ、その本質があるという見方である。だからまた、橋下や吉村の言説や失策を叩くだけでは、サイレント・マジョリティに反発はされても響くことはあまりない。
第三に、ただ維新現象の特異性にも留意する必要がある。ポピュリズムが世界的な現象となっており、多くの場合、主流政治の新自由主義政策推進にたいして、それを批判する形で台頭している。ところが、維新の場合、主流政治の新自由主義政策の不徹底を批判することで支持を集めている。
何を訴えている?
では、サイレント・マジョリティの声はどういうものか? それは、階級的であるか否かという単純な二分法で両断できるようなものではない。
一つは、「日本の一人負け」「沈下する大阪」にたいするいら立ちである。しかも、既成政治家も、経済界も、中央官僚も、地方行政も、日本や大阪の現状を真剣にどうにかしようと考えているように見えないし、その気概も能力もあると思えない。ただ自分の地位や権益を維持しようとしているとしか見えない。そこに不信を抱いている。
サイレント・マジョリティの声は、今日明日の生活が困っているから「何とかしてくれ」と訴えているのとは違う。そうではなく、もっと全体的な危機打開のビジョンを求めている。(先回りすれば、この点が左翼の主張や維新批判に欠けている点だ)
もちろん、このようないら立ちが、絶えず、中国や韓国にたいする排外的対抗心や、マイノリティにたいする差別的反感に転化していることも事実。それを見据える必要があるのは当然だ。
二つは、資本のグローバル化の下で、国家が機能不全に陥っていることにたいする憤り、また、行政組織(とくに地方自治体の)が、自分たちとはかけ離れた疎遠な存在として、官僚化・細分化・事務処理化していることにたいする不信である。
一面では、そこには、現状の民主主義制度の官僚主義と代行主義にたいする批判が孕まれている。しかし他面では、「役所」を、自分たちの不満・不安をぶつける対象にしているのも事実。
そこに付け込んでいるのが維新だ。行政組織を格好の「仮想敵」として攻撃することで、人びとを白紙委任のポピュリズムへと誘導している。
官僚制・代表制を超える民主主義のビジョン、共同体自治、人民主権の回復ということが求められていると受け止めるべきだ。
今一つ、本稿の趣旨から強調したいのは、左翼運動・労働組合運動が、自分たち(=サイレント・マジョリティ)のことを「異物」のように見ていることにたいする不信である。 (つづく)