目鼻 腕に機銃弾
 
 母方の祖母ウシは当時46歳。家族7人が自宅の庭の避難壕に隠れていたとき、銃弾に撃たれた。飛行機からの機銃掃射だったらしい。弾は祖母の左目と鼻を削ぎ、右腕を貫通し、傍にいた三女スミの胸で止まった。500メートルほどの所に日本軍の病院壕があり、伊江島出身の衛生兵が来て二人の止血など応急手当をしてくれた。祖母は歩けないので戸板に乗せられ、喜屋武(きゃん)岬に移動した。喜屋武岬で二手に分かれたので、違う収容所に運ばれた。
 スミの胸は化膿して腫れた。収容所に運ばれるとき激痛のため失神する。「もう持たない」と言われたが、収容所にいた糸満の医師が手術で弾を取り出し、生き延びた。食料も良かったらしく、回復していった。
 
壕で殺された幼児
 
 壕の中で泣く子どもを日本兵が絞め殺すのを見た少女は、ショックで声が出なくなった。そのため小学校にも遅れて入学した。知人の祖母は爆風で両目を負傷、見えなくなった。両足もケガで歩けなくなり、家の中でも座ったまま移動していた。お父さんが召集され中国に数年。ようやく帰ってきたとき、兵隊服だったため娘さんは怖がり、いつもお母さんの後ろに隠れていたそうだ。
 
「デテコイ」
 
 糸満の米須にはガマがいくつかあり、集落ごとに避難した。米軍の攻撃が始まると、日本兵も逃げ込んでくる。米軍が「デテコイ」と投降させようとするが、日本兵がさせない。米軍は火炎放射やガス弾を投入、大勢が亡くなった。アガリン壕では、20代の若い女性が助かった。ウムーニガマは10歳くらいの少年が火炎、ガスに追われ飛び出し助かっている。どうせなら、きれいな空気を吸ってから死のうと、外へ出て助かった家族がいた。いっしょにいると家族が全滅するからと、ばらばらに避難して助かった人たちもいる。
 あちこちの収用所にいた家族が会えたのは、翌年の3月ころ。やっと三和村に戻ることができた。道端や屋敷跡に白い遺骨が散在しており、遺骨の収集も始まった。戦後、その人たちが米須の慰霊碑をつくった。
 

誰にも見せられないよ
 
 祖母や母が言っていた、「戦争は怖い、惨(むご)たらしい」「二度としてはいけない」。大きな眼帯を着けた祖母ウシ(写真上)。本土復帰の直前、国に戦傷補償を申請するため「証明写真を撮ってほしい」と眼帯を外した。外した写真と着けた写真を私が撮った。目と鼻は抉られ、骨が見えた。「こんな顔は、誰にも見せられないよー」と言っていた。亡くなる前、入院した病院で「顔の手術をしてくれるのー」とうわ言を言いながら、亡くなった。
 祖母や母に言われたこと。「イクサは怖い、悲しい、惨たらしいよー。絶対にいけないよー」。それを、ずっと子どものころから聞かされてきた。
 
戦争は二度としない
 
 イクサ場を体験した人たちは、いまも戦争の恐ろしい記憶、友軍日本軍の仕打ちを忘れていない。50年前の復帰のとき、「自衛隊が配備される。怖いものがくる」と反対し、抗議の声を上げた。「日本復帰」は米軍基地が縮小されるどころか、「日本軍の再来」と恐れる自衛隊がやってきた。市町村では自衛隊員の住民登録をしない、県は募集業務をしないとか。いろいろな動きが4、5年続いた。いまなら差別と言われるだろうけど、歓迎されなかった。いま自衛隊は増強され、安保法制や基地周辺の土地規制法など次々につくられた。
 教科書から戦争の記述が減り「集団強制死」(ガマなどでの集団自死)、従軍慰安婦の記述が書き換えられ削られる。南西諸島に自衛隊ミサイル基地がつくられる。なぜ、そうなのかという思いだ。
 沖縄戦のとき砲弾、爆弾は、兵隊・軍のいるところに飛んできた。いまでもそうだ。何かあれば、嘉手納も宮古もねらわれる。危機感を持っている。戦争をしない、そういう政権をつくることが、いちばん。   (おわり)
 
防衛局は遺骨まじりの土砂を採取し辺野古の埋め立てに使おうとする。写真展を企画した富樫守さんは、「遺骨は収集すると言っているが、お骨を納めるときは小さな喉仏を最後に入れる。喉仏まで拾えるのか」と話した。