

前回、「維新を支持しているのは誰なのか?」と問題を設定し、その中で、「左翼運動、労働組合運動が、自分たち(=サイレント・マジョリティ)のことを『異物』のように見ていることにたいする不信」という問題を指摘した。これについて考えたい。
左翼の冷笑的態度
というのも、前線で奮闘する活動家の中に次のような見解があるからだ。曰く、「維新支持者は貧困層を憎悪するタワマン族」(大学教授)、「維新支持者の頭の中は『お花畑』」(自治体議員)。
発言者個人を批判したいのではない。こういう会話が左翼の間で日常化しており、そこに、むしろ、私たち左翼の直面する問題が突き出されていると感じるからだ。
問題点を列挙しよう。
a.「維新支持者は『タワマン族』『お花畑』」というが、まず、事実なのか?真偽は、直接、維新支持者と落ち着いて会話をすればすぐに分かる。そういう会話が成立しない・する気がないという関係になっていることが窺われる。左翼の側から分断を促進・固定してしまっている。
b.「タワマン族」を持ち出す心理だ。「庶民の味方だ」と自負する左翼にとって、「庶民が維新を支持している」事態を見据えたくない。そこから、「タワマン族」という虚構の解釈を持ち出して自己納得しようとしている。しかし、それは「仮想敵」を攻撃する維新のロジックの裏返しでしかない。
c.「お花畑」とは、「維新支持者は、左翼の訴えに耳を貸さず、自分の首を絞めるような政策を支持する自業自得の人びと」という意味だ。そういう見下しと突き放しが左翼の側にある。しかし、「左翼の訴えに耳を貸さない」のは、果たして維新支持者の側の問題なのだろうか。左翼の側に問題はないのだろうか。自分の主張は正しく、それに耳を貸さない者は「自業自得」とするのは左翼の傲慢と独善だ。
d.維新支持者を「タワマン族」「お花畑」と規定することで、ここから一体どういう方針がでてくるかだ。「階級的」に「矯正」するか。それとも「階級敵」として「粉砕」するのか。危険な態度が生じかねない。
経済全体をどうする?
以上の何が問題なのか。一つは、左翼が想定してきた「労働者階級人民」観の問題性だ。二つは、活動家の日常世界・人間関係が、仲間内だけの狭く同質的な意識に閉じていて、普通の人びととの関係や感覚を共有できなくなっている問題だ。三つは、これが一番大きいと思うが、経済問題である。
グローバル化の中で、国内経済のパイが縮小する一方、グローバル資本だけが利益を奪い去り、残りカスを巡って人びとが競争させられている。「成長戦略」というのに、経済は一向に好転しない。そういう中であがいている人びとが、「私が苦しいのは、規制に守られて権益を得ている連中のせい」といった悪感情(ルサンチマン)に囚われる。そして、「規制に守られている連中」をムチ打つ「痛みを伴う改革」「身を切る改革」を支持したい気持ちに駆られる。
だから、問題の中心は、「グローバル化」であり、「経済の縮小」と「グローバル資本による利益の略奪」であり、「残りカスを取り合う経済政策」なのだ。この原因・構造・からくりを解明し、対抗ビジョンを提示していく必要があるのだ。
しかし、ここで私たち左翼自身がそもそも「経済全体をどうする?」という立場で考えていないし、だから「人びとがなぜ維新を支持するのか?」もつかめない。対抗ビジョンも示せない。人びとに伝わるのは、現状維持と冷笑的な態度だけ。それが、人びとをポピュリズムの側に押しやる一つの要因になっている。
誰がナチスを
支持したのか?
この問題は、ナチスが台頭しはじめた当初から、さらに戦後は責任問題として、大きな論争になってきた。そして、「労働者階級はナチスを支持していない。支持しているのは中間層だ」という見解が長らく支配的だった。しかしこの見解は、単に事実誤認に留まらない問題を孕む。
第一次大戦後のドイツでは、敗戦と賠償問題、ヴェルサイユ体制とワイマール体制、その下での労働者の屈辱と窮乏があり、「ドイツをどうする?」という大局的な選択が大きな争点となっていた。そして、労働運動の内部で、マルクス主義者とナチスが競り合っていた。労働者は両者の間を振動・交錯していた。その中で、マルクス主義者は敗北した。敗因は、テロルでも反ユダヤ主義でもない。マルクス主義が想定してきた階級観ないし「階級社会」というとらえ方が誤っていたこと、そして「ドイツをどうする?」という大局的な選択において、ビジョンを示せなかったことだ。そのために、労働者をナチスの側に追いやってしまった。
「ナチス支持は中間層」という見解は、労働者の不満・不安がナチスを押し上げていった事実、そして、マルクス主義の主張が労働者を獲得できなかった事実、マルクス主義の敗北とその欠陥という問題を見据えずに糊塗する欺瞞でしかない。
100年前の構図が再帰している。問われているのは私たち左翼の側である。(なお、ポピュリズムとファシズムは単純に等置できない。また、現時点で、維新をファシズム規定するのは早計である)。 (つづく)