5月15日は、復帰50年を迎え、特集記事でマスコミが賑やかでした。市民の方は、コロナのため集会もなく、久しぶりの労働組合による平和行進も、規模を縮小したため盛り上がりに欠けました。
そういう中、式典のため沖縄入りした岸田総理への抗議行動が急遽呼びかけられました。当日は雨。車を止めるところがなく、私は運転手役で3人を会場に送り、近くに待機しました。帰り、三上智恵さんから、「50年前の当日はどのようだったの」と問われました。
あの日は、同じように雨が降っていました。雨の中、条件付き復帰に反対するデモでした。基地の無条件撤廃を求めていたのに受け入れられず、異議ありの声をあげていました。
当時、私は母方の叔父の家に居候の身でした。叔父は中小企業だった「中央倉庫」「沖縄酸素」という会社の経営者、兄弟でやっていました。復帰には不安だったのか、賛否を言いませんでした。多分反対なのかなと思い、私も復帰のことについては一切触れずにいました。
復帰が近くなると叔父は不機嫌になり、酒を呑んでぶつぶつ兄に文句を言っていました。本土資本にどう対応するかで兄弟が喧嘩しました。兄が国場組に吸収合併という道を選んだからです。沖縄の中小資本家は怖れたはずです。復帰前、沖縄独立論は資本家の方にあったのです。案の定、復帰に伴い本土大手が進出し、その系列下に置かれました。系列下にならなかったのは、「オリオンビールと社大党、暴力団だけ」という話があったほどです。土地の買い占めが起こり、三菱やガルフ資本が入り海を埋め立て、CTS(石油備蓄基地)のような大型工事が行なわれました。
復帰時点で詰めが浅かったのは、米軍基地の後に自衛隊が入っていたこと。例えば、那覇空港近くの空自基地の広いこと、広いこと。
復帰数年、あれやこれや不満がたまり1958年から4期16年コザ市長を務めた大山朝常は、「私の遺書だ」と『沖縄独立宣言』を出版しました(97年)。同じころ、後に沖縄開発庁長官などを歴任した上原康助は、「沖縄が独立する場合、どういう法的措置が必要なのか」と衆議院予算委員会で質問しました。彼もまた、『沖縄独立の志』を執筆し、出版を考えていました。これらは、みな不満の表れでしょう。
不満は続きます。故翁長知事も辺野古新基地のことを念頭に、「沖縄の事は沖縄で決める」と言いました。背景に、自治の問題、自治の質がくすぶっています。
沖縄が米軍統治に置かれていたころ、高等弁務官キャラウェーの「沖縄の自治は神話である」発言に大変な反発がありました。映画『サンマデモクラシー』でも触れていましたが、「自治は神話」発言のくだりには、「あなたたち琉球人が、もう一度独立した国民国家になりたいという自由意志を持たない限り、将来も自治はないだろう」という言葉があったのです。
県職員として戦後処理を巡って日本政府と対峙してきた宮里整さん(89)は、後日キャラウェーの発言のくだり、つまり全体を知り、述懐しているのが、琉球新報の1面(5月6日)に載っていました。
当時、日本復帰ばかりが優先され、独立を視野に入れた議論がなかったことに違和感を抱いた。琉球政府職員だったが、戦前は皇民化教育を受け、独立国だった歴史を知らずにきた。「(米側に)あなた方がいなくなれば独立だ」と切り返すチャンスだったはず。「沖縄側の知恵の貧しさだ」と振り返る。復帰後、権威を振りかざす官僚とぎりぎりの交渉をしながら、独立は困難でも沖縄の自治を追求しようと働いた。しかし、復帰した日本で沖縄の自治は達成されなかった。国の指示には必ず従わなければならないという県内部の卑屈な意見も見聞した。
復帰から50年、沖縄の困難は続くが、求めた自治はまだ遠い。「復帰すれば国が全て解決してくれると見誤った。中央にまかせるのでは自治は成立しない」。
宮里さんが語った内容です。復帰の時の戸惑いと、その後の思いの一端をわかってもらえるでしょうか。 (富樫 守)