炭谷光世さん(95)から明石空襲の体験談を聞く高校生ら(6月11日、兵庫県明石市)

ピースネット明石主催の「あかし戦跡めぐり」が行なわれた(6月11日)。曇り空、36人が参加した。2010年から10年続いたピースウォーク明石を引き継ぐ。現場で戦争体験談を聞く。
国道2号をまたぐ歩道橋の上、ガイドの牧野満徳さんから、戦後すぐ、戦災復興で大変だった明石市の中心街、「魚の棚」で起こった大火の話があった。
西進して、当時の警察や市役所のあったあたり。電話局だった明石郵便局の前、炭谷光世さん(95)から聞いた。「19歳の電話交換手で当番についていました。1945年1月19日、明石大空襲のとき、川崎航空機割り当てタブが全部バタッと落ち、空襲警報が鳴った。やりとりしていた川崎の電話交換手がみんな死んだ」。
「7月7日の焼夷弾のときは、空襲警報が鳴り電話局に走った。焼夷弾が落ち、どんどん燃える。課長がみんなどこへでも逃げてくれと。火の海、すぐ近く鉄筋の市役所へ逃げ込んだが、中は木だから燃えてきた。防火用水に浸かってから、バケツリレーで消した。戦争でいいことは何もない。あんな時代は二度とごめんや」。
次ぎは岩屋神社境内、もう一人の体験者・市川幸美さん(84)から話を聞いた。市川さんは当時7歳、小学校2年生。「空襲のときは海に逃げた。漁師は船に、船のない人は海に浸かり布団を被った。材木町からずっと向こうまで焼け野原。道路に焼けた死体がごろごろ転がっていた。ロシアのウクライナ侵略をテレビで見ると、居ても立ってもいられない。戦争は許せない」。
取材を兼ねて市内の高校新聞部の4人や、神戸空襲を記録する会からも参加があり、高齢の体験者からしっかり引き継ぐ企画になった。(江戸信夫)