平和の礎

6月6日から8日にかけて「安和桟橋、塩川港大行動22」があり、私は7日に塩川港に行きました。かなりの搬入ダンプを止めることができました。日ごろの闘いに、活気を与える行動でした。
翌日からは、「平和の礎(いしじ)・名前を読み上げる集い」の準備です。平和の礎には、沖縄戦で亡くなられた方すべてと、満州事変に始まる15年戦争で亡くなられた沖縄県出身者の名前、合わせて24万1632人が刻銘されています。それを全部読み上げます。
この計画を「読谷から始めたい」と依頼があり、大忙し。読谷村(よみたんそん)関係者だけで3700人余、4時間かかります。
礎に刻まれている名前の台帳名簿が送られてきました。びっくり。ふりがなはコンピューターに任せたとのこと。沖縄読みとは違う読みがたくさんあり、その訂正の作業からです。例えば「武太」「三良」は「ぶだい」「さんりょう」と読みが打たれています。しかし、生年月日からして明治、大正ですから、「んた」「さんらー」と呼んだはず。まだ、沖縄的な名前が付けられていました。なにしろ、戸籍が戦争で焼失しています。公民館にもたずねました。しかし、私よりも若い世代になっていますからわからない。そこで当時の慣習を推測して読むという方針を立てました。
名前がなく、「饒波(のは)三七の長男」と付けられたのもあります。生年不詳となっています。そのころだと、生まれてから2、3日(かのえ、かのとの日)に命名式があり、童名(ワラビナー、沖縄名)が付けられていました(渡名喜島)。私の父の場合は童名(沖縄名)がマチュー、少し日にちが過ぎてから学校名(戸籍名)が付けられ、その名は通睦です。「饒波三七の長男」さんも名前が付けられていたはずです。だが、饒波三七さんも、その妻らしき饒波チルさんも亡くなっています。しかし誰かが、生きた証を残しておいてあげようとの思いで「三七の長男」と記したのでしょうか。
台帳には名前以外に死亡年齢、死に場所が記入されています。0歳から90歳代までが自宅、ガマ、収容所、疎開中の海、南洋、レイテ島とかペリリュー島とかの激戦地などなど。さまざまな場所での死です。饒波家の死に場所の欄は「恩納村の壕を出たまま」となっています。たったA4の1枚1行に書かれた簡単な情報から、亡くなった情景を思い浮かべ、胸に迫るものがありました。
読谷村関係者の台帳名簿の1ページは、村長に呼んでもらいます。トップは「アカハツコ」さん。読むのは名前だけ。死亡年齢(17)、死に場所(奄美大島北方)の情報を見て、アカハツコさんと呼びかけます。一瞬、名前が立ち上がり、何かを伝えるかも知れません。
芸能のお能のパターンでは、旅の僧が戦場であった旧跡で休んでいると死者が現れ、亡くなった所以(ゆえん)を語ります。私たちの方は、名前を呼べども亡霊となって現れはしませんが、「二度と戦さはするな」との声を聞き取ります。
この「平和の礎・名前を読み上げる集い」は読谷から12日に始まり、23日の朝、摩文仁(まぶに)で読み終える追悼行為です。オープニングセレモニーの最初は海勢頭(うみせど)豊さんの「月桃の花」です。その歌の3番は、♪摩文仁の丘の祈りの歌に 夏の真昼は青い空 誓いの言葉 今も新たなふるさとの夏♪
沖縄を二度と戦場にしてはならないという「死者」との誓いを、名前の読み上げで今年も新たにするのです。(富樫 守)