ジョセフ・スティグリッツ『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』(桐谷知未・訳、徳間書店 2016年)

 前回は、30年来の「改革」が、賃金主導型とは対照をなす企業利潤主導型の成長戦略(企業優遇と労働コスト削減で、企業の利益拡大を追求)に基づいて進められている点を見た。今回は、その政策を正当化する「トリクルダウン(上層から下層へ富がしたたり落ちる)仮説」を見たい。

 
「たら・れば」
   という仮想
 
 まず、トリクルダウン仮説に依拠した言説を列挙する。
◇竹中平蔵(安倍政権・産業競争力会議メンバー・当時)
 「企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず庶民にも恩恵は来ますよ」
 (竹中平蔵×田原総一朗対談 13年12月)
◇安倍政権
 「成長分野への投資や人材の移動を加速できれば、企業の収益も改善し、それが従業員の給与アップ、雇用の増大で国民に還元される」(「日本再興戦略」13年)
◇浜田宏一(経済学者 安倍政権ブレーン・当時)
 「アベノミクスは、トリクルダウン政策といえる」(日経新聞14年4月1日)
◇大阪維新の会
 「福祉、医療、教育、安心・安全等に係る住民サービスの向上こそが地方政府の存在理由であるが、そのためには、圏域の競争力の強化と成長が不可欠」(綱領)
◇上山信一(慶大教授 大阪府市特別顧問)
 「大阪府がリーダーシップを発揮することが、経済の活性化の恩恵を広く住民生活に行き渡らせていく(トリクルダウン)うえでも大切だ」(トリクルダウンの付記は上山。yahoo! News 19年1月11日)
◇岸田首相
 「成長か分配かではなく、成長も分配もだ。まずは成長戦略、これを実行する。日本の弱みの分野に官民の投資を集め、成長のエンジンへ転換していく。その上で、成長の果実を広く国民に分配する」(22年1月国会答弁)
 いずれも政策の核心部分でトリクルダウン仮説を支えにしている。文言そのものを使わない場合も含めて、「たら・れば」という運びがトリクルダウンのロジックである。つまり、企業収益や経済成長が「あったら」、賃金や行政サービスに「恩恵」もありうるが、それがなければ「ないものはねだるな」と突っぱねる論理である。
 まずもって「恩恵」という言い方が不遜だろう。賃金や行政サービスが「おこぼれ」という扱いなのかという問題だ。
 
利益は
タックスヘイブンへ
 
 80年代米国のレーガン政権が、富裕層にたいする大型減税をおこなった。その政策を正当化する理屈がトリクルダウンだった。それが「主流派経済学」(新古典派経済学に現代的な装いを施した理論)とともに全世界に流布された。ケインズ経済学が「需要側の経済学」と言われたのにたいして、主流派経済学は、「供給側の経済学」と言われ、「労働者の需要ではなく、企業などの供給側を優遇・強化すれば、経済成長ができる」という主張で成り立っている。
 その主張と不可分のトリクルダウン仮説は、次のように仮想している。
 ①投資家・企業を政策的に優遇→②投資家・企業の利益が増大→③国内投資が拡大→④雇用・賃金が拡大→⑤消費が拡大→⑥再び投資家・企業の利益が拡大
 こういう好循環になるのだから、その起点である①の実行が必要なのだという理屈だ。
 ①→②は、まあそうだとしよう。しかし、②→から先はどうなのか。
 ここで、企業行動を決めるのは、もはや経営者ではない。株主の利益最大化を要求する海外投資家、グローバル資本だ。「利潤を労働者に配分したら、労働コストが上がり、企業の競争力が損なわれる」と反対するグローバル資本の圧力の下で、経営者が、労働者に利潤を配分することはない。しかも、グローバル化では資本移動はボーダレスであり、グローバル資本は、利益を海外=タックスヘイブン(租税回避地)に持ち去る。あるいは金融商品のマネーゲームに投資する。もちろん日本国内に再投資する可能性もあるが、需要縮小・人口減少が続く今の日本に魅力はない。
 結局、②→から先の循環はない。つまり、トリクルダウンはないのだ。
 
実証研究
「富裕層が富んだだけ」
 
 「トリクルダウンはない」ことは実証研究でも示されている。
 最近の英国の実証研究(20年12月 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)では、OECD加盟18カ国が、1965年から2015年までに実施した富裕層にたいする減税を分析した結果、「富裕層の資産は増加したが、経済成長や失業率に変化は見られない」。
 「世界不平等レポート2022」(世界不平等研究所 パリ)では、「この数十年、ビリオネア階級では大幅な資産増加が発生したが、トリクルダウンは発生せず、世界の富が常に上に向かって流れ続けている」と総括。さらに、「富の集中を助長した主な要素は、タックスヘイブンによる租税回避。現在、世界のGDPの推定約10%がタックスヘイブンで保有されている」と指摘している。
 また、グローバリズムを批判するノーベル賞経済学者のJ・スティグリッツも辛辣だ。「サプライサイド理論[供給側の経済学]は、税率の引き下げと事業に対する規制緩和でインセンティブを高めれば、労働や投資や起業の増加につながり、さらには雇用や所得や税収の上昇というトリクルダウン効果をともなって力強い成長につながると想定した。予測ははずれ、この理論は経済学者からの信用をほぼ失うことになったが、一定の保守的な政治家や理論家のあいだでは今も好まれている」(16年2月・写真上)
 
30年来の
   虚構の「改革」
 
 以上のように、トリクルダウン仮説はフィクションであり、グローバル資本が儲けるだけで、社会全体に「恩恵」はない。
 ということは、30年来、そういうフィクションを騙って、「改革」や「成長」を叫んできたわけだ。歴代政権は、虚構の「改革」を臆面もなく掲げ、与野党問わず「改革」を競い、成果が見えなければ「改革が不十分」とさらに拍車をかけた。そうやって実際に進行したことは、労働者を犠牲にし、率先してグローバル資本に社会の富を差し出すことだった。
その結果が格差・貧困と日本経済の長期停滞である。     (つづく)