
自衛隊の内部記録、約3500ファイル(8万ページ)を情報公開法の開示請求によって入手し、13年にわたる調査報道の本である。
自衛隊の南スーダンPKO派遣の日報隠ぺい問題で、当時の稲田防衛相、黒江事務次官(『防衛事務次官〜冷や汗日記』著者)、陸上幕僚長3人の辞任で幕引きがはかられ、その後沙汰止みとなった。なんとも歯がゆい思いだったが、想像以上に根深い現実が明らかになる。
16年7月、ジュバの自衛隊駐屯地区(UNトンピン地区)とPKO本部地区(UNハウス地区)で起きた、政府軍とマシャ—ル派との戦車・迫撃砲などによる激しい戦闘では、中国部隊で2人の死者、計10人の重軽症者が出た。2カ所ともPKO部隊が「交戦」していることを、布施氏はオーストラリア国防省に情報公開請求して得た豪軍の文書で発見している。
文書には「国連の基地は、今や無差別に(攻撃の)標的」とある。このジュバ・クライシスの1カ月後に、安倍政権は「駆け付け警護」「宿営地の共同防衛」の新任務を陸自に付与した。布施氏は、1カ月前にずれていたら自衛隊は政府軍との戦闘になっていたかもしれない(施設部隊は「駆け付け警護」には普通は入らない)と。国会は、ジュバ・クライシスの検討もせず「PKO参加5原則」は維持されているという政府のウソに押し切られる。
部隊を率いた中力治隊長は、政府軍が攻撃しかけてきた場合の対処を「考えていた」と発言。「武器の使用」と「武力行使」の区別は世界中で日本だけであり、「政府派・反政府派の支配地域」を「反政府派の活動が活発な地域」と書き換え、「国家に準ずる組織」に該当しないよう隊員の家族に説明。その指示が稲田防衛相から直々にあったという。
イラク派兵では、陸自宿営地に対する迫撃砲・ロケット弾による攻撃が計14回。防衛省に開示させた「イラク行動史」では、隊員が躊躇なく引き金が引けるよう「最終的には『危ないと思ったら撃て』との指導をした指揮官が多かった」とある。小泉元首相が「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域」とうそぶいたが、陸自はサマワに10個の棺をひそかに持ち込み、戦死を想定して臨んでいた。
イラク復興業務支援隊長だった佐藤正久・現参院議員は、「(交戦中の友軍の応援に)情報収集の名目で現場に駆けつけ、『巻き込まれる』状況を作り出すことを考えていた」と堂々告白する。チャンスがなかっただけで、あえて武器を使う状況を作りだそうとしていた。
カンボジアPKOの際、中田厚仁・国連ボランティアと高田晴行・警部補が銃撃を受け死亡。この時、陸自は当時凍結されていた「巡回」や規定すらなかった「警護」を実施していた。井上廣司・陸自幹部は、他者を守るために武器が使えない以上、自分が「巻き込まれるしかない」と居直った。国連が統括するPKOには「文民保護」はあっても、自国民だけ救助する活動はない。「邦人救出」のためのPKO派兵の根本矛盾を明らかにする。
著者は、「PKO部隊は30年の間に中立から先制攻撃すら行なう紛争当事者に変貌した。世界に貢献するというなら、非武装の軍事監視要員の派遣にすべき」と言う。日本が「軍事で世界に貢献する」などあってはならない。(村)