戦争は女の顔をしていない

 2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ(1948年5月生まれ)の『戦争は女の顔をしていない』を読んだ。第二次大戦の独ソ戦で、戦場に赴いた女性たちへの聞き取りである。独ソ戦では、双方合わせておよそ3千万人が死んだ。追い込まれたソ連からは500万人を超える女性が従軍したという。そのうちの500人にインタビューしたのが、この書である。
戦争を嫌っていた彼女が、独ソ戦に武器を取った女性たちから聞き取った。今また、侵略を受けたウクライナでは女性たちも、武器を持ち戦っている。戦争の様相は、独ソ戦を経験した女性たちのそれと変わらないだろう。
例えば歩兵中隊、オリガ・ヤーコヴレヴナ・オメリチェンコの語りの、ほんの一部。
(前略)戦闘は激しいものでした。白兵戦です。それは本当に恐ろしい。人間がやることじゃありません。殴りつけ、銃剣を腹や眼に突き刺し、喉元をつかみあって首をしめる、骨を折る。呻き声や悲鳴が渦巻いています。頭蓋骨にひびが入る音がする。戦争の中でも、悪夢の最たるもの。人間らしいことなんか何にもない。(中略)突撃の後は、顔を見ない方がいいんです。だって、それはまったく別な顔ですもの。普通、人間が持っている顔じゃない(後略)。
さらに悲惨な話が展開され、耐えきれない場面が数々あります。「戦争は女の顔をしていない」ことは確かです。だけど、私はこの書に登場する多くの語り手の話に涙しました。涙し、半分も読み進めない。そこには、女の顔が、人間の顔が、随所に見えるのです。
捕虜にパンをあげる。負傷者を助けるためもろともに火炎に包まれ死んだ話、スミレを摘んで銃の先に着け、叱られた話。戦場で恋した兵士が殺され、その遺体を撫で通した話。病室で敵兵の治療を頼む味方の兵の話。馬やヤギを助ける話などなど。
私自身は、戦さになれば武器を取らない、逃げる。だけど、闘いはする。同じ「たたかい」であるが、人間の顔、女の顔をして「たたかっているか、どうか」であろうか。
この書に登場する戦さに参加した語り手は、人間の顔をしていない場面の中に女の顔、人間の顔を見せている。そこに濃淡が、はっきりしている。そこに唯一、救いを見い出せた。ならば、戦争をしないという道が見い出せないのだろうか。
「それもそうなんだが…みんな若かった。生きていたかった」。何がそれを阻害するのだろうか。国の権力を握ったものたちだろうか。「ウクライナに平和を!」と毎日スタンディングしていたが、週2回になり、最近は週1回になっている。
「命どぅ宝」は今、戦っている両者に届けなければいけない…。(富樫 守)