日本国憲法

 第二次大戦後、日本の占領統治をおこなったGHQの民政局が最初に着手したのは、女性に参政権を与える選挙制度改革であった。日本政府は「時期尚早論」を展開してこれに抵抗したが、1946年4月10日に実施された戦後初の衆議院選挙では女性の参政権が認められた。このとき1380万人の女性が日本史上初めて投票権を行使し、39人の女性国会議員が誕生した。
 次の大きな課題は憲法の制定であった。GHQ民政局は憲法草案制定会議を設置して、日本政府との間で憲法草案の検討をおこなった。このとき日本政府が用意した憲法試案は、「日本国は君主国とす」に始まる旧態依然たるものであった。
 GHQによる憲法草案24条では「家庭における個人の尊厳と両性の本質的平等」がうたわれた。この内容は13条の「すべての国民は個人として尊重される」、14条の「法の下の平等」と重複するものであったが、敢えてそれらを24条で繰り返しているのには理由があった。それは家庭内を「別世界」「治外法権」として、憲法の理念がないがしろにされかねないことを懸念したからだった。それほど日本社会における女性差別は根深いものであった。だからこそ、「家制度の廃止」と「父権・夫権の否定」を宣言した24条においては「個人の尊重」と「法の下の平等」を特に強調しなくてはならなかったのだ。
 この24条の制定に全身全霊をかたむけて起ち上がったのが、ベアテ・シロタ・ゴードンである。憲法草案制定会議のメンバーに選ばれた時、彼女はまだ22歳だった。
 ウィーンで生まれたベアテは5歳のとき、亡命ユダヤ人として来日した。「私は小さい時から日本の軍国主義を見てきました。憲兵隊は毎日、私の家に来ました」。幼い異国の少女は、日本女性が虐げられ、低い地位におかれていたことを、日本人の友人やお手伝いさんから、絶えず聞かされて育った。ベアテは大学進学のため一時米国に留学したが、終戦後、米軍属として5年ぶりに日本に帰ってきた(父母は戦争中も日本に在住)。破壊された東京を見たベアテは強い衝撃を受けた。東京は彼女にとって「ふるさと」だったのだ。
 先進的な時代感覚と人権意識を併せ持っていたベアテは、憲法草案の作成に一心不乱に取り組んだ。彼女が作成した草案は「両性の法律的社会的平等」「母親の保護」「非嫡子への差別の禁止」「児童医療の無料化」「多岐にわたる社会保障制度の充実」などを含む先進的なものだった。そしてさっそく制定会議の上司と衝突した。GHQも男世界。「基本的な女性の権利のところは賛成するが、社会福祉にかかわるところは憲法に合わない」と上司は切って捨てたのだ。これにベアテは「社会福祉に関することを憲法に書きこまなければ、民法を作る際に男性の為政者は社会福祉の観点を民法に反映することはない」と主張して敢然と立ち向かった。
「それではアメリカの憲法以上のものができてしまうではないか!」という上司。ベアテは怯まない。「そうなるのは当たり前です。ヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が書かれています。ところがアメリカの憲法には女性という言葉がまったく書かれていないのですから!」